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神道専門家の羽賀ヒカル監修のもと、架空のキャラクターの
新米巫女の橋本ユリが、神社に関する知識をわかりやすく解説します。

スーパースター武内宿禰は実在したのか?~武内宿禰の生涯にせまる~

2019年11月7日

こんにちは!北極神社の新米巫女、橋本ユリです。

武内宿禰(たけうちのすくね)は古代の偉人です。もしかしたら、ご年配でよくご存じのかたも、いらっしゃるかもしれません。
景行天皇14年(西暦84年)に生まれ、五代の天皇に仕えた忠臣、と言われています。なんと、360歳まで生きただけでなく、戦でも活躍した武勇の人物で、数々の伝説を持っています。さらに日本の歴史上、初めての大臣となった人物でもあるのです。

橋本ユリ
明治から昭和初期にかけて紙幣の肖像にもなった武内宿禰。
それほど偉大で、今なお武内宿禰の子孫がいらっしゃるにもかかわらず、その生涯は諸説あり、謎に包まれているのです。


それでは参りましょう!

武内宿禰の生涯

武内宿禰は、5代の天皇に仕えたと記紀には記されています。
特に仲哀天皇が急に崩御されたとき、朝廷は新羅に遠征中でした。神功皇后が後をつぎ、軍を指揮したのですが、実質その軍を動かして新羅に勝利したのは、武内宿禰の力によるものです。
また、神功皇后に仕えていたときの反乱軍鎮圧が、有名でもあります。
それぞれの天皇にお仕えしていたときに何があったのか、まとめてみました

 

景行天皇に仕える

武内宿禰は、屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオゴコロノミコト)と影媛(カゲヒメ)の間に生まれたと記されています。
いつのころから景行天皇に仕えたのかは定かではありませんが、景行天皇25年に、天皇から東の国の様子を探ってくるよう、命じられました。
北陸や東海地方などを巡った際、その国々の人々の、活気あふれる様を目の当たりにします。
また、土地は実りが多く豊かで、勇猛な男も多く、武内宿禰は危機感を覚えたのです。

都に戻った武内宿禰は、景行天皇に蝦夷討伐を勧めるのです。もしも、良からぬことを企む有力者が現れたら、大変になると言ったのです。ちなみに、当時の蝦夷は関東・東北にあたります。

ヤマトタケルノミコトにより東征が行われましたが、この記述からヤマトタケルノミコトと武内宿禰が同一人物だったのではないか、という説もあります。

景行天皇51年、天皇は有力者を大勢集めて、大宴会を開催しました。その宴会は何日も続きましたが、景行天皇の息子である皇子の稚足彦(ワカタラシヒコ)と武内宿禰は宴会に出席しませんでした。

自分の威光に従わないとは、と不快に感じた景行天皇は、二人を呼び出しました。
そのとき武内宿禰は、こう答えたのです。
「今、有力者たちがみな酔いつぶれ、まつりごとを行うものは、誰も居ません。また、警備も手薄になっています。万が一、不届き者が現れて、帝の命を狙われてはとても危ない、そう思って、門の前に控えていたのです」
天皇は非常に喜び、この功績により稚足彦は皇太子に、武内宿禰は棟梁之臣に任命されたのです。棟梁之臣は有力者たちをまとめる役割で、配下の中では一番力のある位、とされています。

橋本ユリ
武内宿禰は、芯の通った人物だったのですね。


 

幼馴染だった成務天皇

景行天皇が崩御されたのち、成務天皇が皇位に就かれました。
実は成務天皇は稚足彦で、武内宿禰と幼馴染だったのです。なんと、同じ日の生まれでもありました。
昔から気心が知れていた、武内宿禰のことを成務天皇は寵愛され、武内宿禰は忠実に成務天皇に仕えつつ、君臣の立場をわきまえて接しました。

そのため信頼はますます厚くなり、成務天皇3年、武内宿禰は大臣(オオオミ)に任命されたのです。
大臣は、実際の執政を担う役割で、今でいうところの総理大臣のような役割でしょうか。
成務天皇に仕えていた日々は、安らかで充実した日々だったのかもしれませんね。

 

外征で活躍 仲哀天皇時代

仲哀天皇9年、そのときには新羅に遠征しており、武内宿禰も同行していました。ところが急に仲哀天皇が苦しみだし、命を落とすのです。一説によると呪いによって、殺されたとも言われています。
その際、皇后である神功皇后を助け、新羅軍に勝利したのです。

また、天皇がお亡くなりになったと民に知れ渡ると、統率が乱れて、反乱がおこるかもしれませんでした。
神功皇后の命によりその死は秘密とされ、遺骸は武内宿禰によって船で運ばれ、穴門に移送されたのです。
そして、豊浦宮で密葬されました。

これらの功績から、武内宿禰は神功皇后の腹心として、活躍することになるのです。

 

波乱にみちた神功皇后時代

神功皇后は、都に凱旋しようとしましたが、都では香坂王・忍熊王という仲哀天皇の皇子が、反乱を起こしたのです。仲哀天皇が亡くなったのは神功皇后の謀略であり、自分たちが皇位に就くのが筋だ、と言い張りました。

そのため一行は、都に戻ることができなくなってしまいました。回り道をして、海路で筑紫の国に差し掛かったときに、神功皇后は、品陀和気命(ホムダワケノミコト、後の応神天皇)を産んだのです。
その子を神功皇后は武内宿禰に抱かせ、ようやく紀伊水門にたどり着きました。

そこから難波に到着し、すぐさま反乱軍をどうするか、会議が行われました。
結果、二人を討伐することになり、武内宿禰が軍を率いることになったのです。

そのまま戦ったのでは、戦死者がたくさんでてしまう、そう思った武内宿禰は一計を案じます。
忍熊王に和睦の申し出をするのです。「私たちは忍熊王に逆らうつもりはありません。幼い神功皇后の子を守りたいだけです。あなたが皇位に就いて、天下を治めればいのです。さあ、互いに武器を捨てましょう」
そう言って、弓の弦を切り、刀を川に投げ捨てたのです。

それを見た忍熊王は、部下たちに武器を捨てさせました。その瞬間、武内宿禰の軍は、予備で隠しておいた弓矢と刀を取り出し、一斉に忍熊王に襲い掛かったのです。
武器のない忍熊王たちは散々打ちのめされて、とうとう逢坂の地で討伐されたのです。

このころ、武内宿禰の伝説が残されています。

仲哀天皇9年、神功皇后は神々に稲を捧げる神田に水をはるために、水路建設を命じます。しかしその途中で、とても固い大岩にぶつかりました。
割ることもできず、掘り下げることも、迂回することもできずに困っていたとき、神功皇后は武内宿禰に剣と鏡を与え、この大岩を割るように命じます。
武内宿禰は神に祈りを捧げ、気を発したその瞬間、大岩は真っ二つに割れて、水が流れたというものです。

橋本ユリ
もはや、人知を超えた力を持っていたのかもしれませんね。


 

暗殺されかけた応神天皇時代

神功皇后のあとを継ぎ、品陀和気命が応神天皇となりました。
応神天皇9年のとき、筑紫の国の様子を見てくるように、命じられました。
穀物の取れ高や、民の暮らしぶりを視察するためです。

その頃、武内宿禰の活躍を妬む者がいました。なんとそれは、武内宿禰の弟、甘美内宿禰(ウマシウチノスクネ)でした。

応神天皇に耳打ちしたのです。
「武内宿禰の人望は、世間に広く知られている。兄も、今の身分では飽き足らなくなって、不満を漏らしているのです。あろうことか、帝であるあなた様を、殺そうとしているのです。今のうちに対処されたほうが、よろしいかと」

激怒した応神天皇は、武内宿禰を詰問し殺害するための使者を、向かわせます。
使者は予定通り武内宿禰を詰問し、反論を聞き入れず殺そうとしますが、壱岐真根子が武内宿禰をかばって難を逃れます。壱岐真根子は殺されてしまい、失意に沈む武内宿禰でしたが、帝のためを思い、やっと都に帰り着いて、暗殺など企んでいないことを証明しました。
応神天皇は真実を知り、甘美内宿禰を討伐するよう武内宿禰に言いました。

もともと、武勇と知略に秀でた武内宿禰に、敵うわけもありません。甘美内宿禰は、探湯で討ち果たされました。
これで再び平和が訪れたのです。

 

平和な最期をむかえた仁徳天皇時代

最後に仕えた仁徳天皇のころは本当に平和でした。

仁徳天皇と武内宿禰の子が同じ日に生まれる、というめでたいこともありました。
その際、仁徳天皇が生まれた屋敷にはミミズク(木菟)が、武内宿禰の子の方はミソサザイ(鷦鷯)が鳴きながら入ってきたので、武内宿禰の子には「平群木菟(ヘグリノツク)」仁徳天皇には「大鷦鷯(オオサザキ)」と名付けました。

また、仁徳天皇と武内宿禰は長寿を祝い、和歌を贈りあったりしました。

こののち、武内宿禰に関する記述が途絶えてしまい、いつ亡くなったのかは不祥となっています。

橋本ユリ
没年が不明で年齢が計算上360歳、となると武内宿禰は本当に実在したのか、気になりますよね。


 

武内宿禰は実在したのか

これには諸説あります。記紀における記述や年号の矛盾、生誕の地や父母がはっきりしていないこともあり、たびたび論争になっていいます。

特に、竹内文書の偽造疑惑などもあり、宗教的な意見の対立などから、複雑化しているのが現状です。
確かに、実在したと証明することは難しいかもしれませんが、多くの偉大な人物(有力な豪族)を総称したとも考えられます。

また、360歳は科学的にありえないかもしれませんが、古代の文書は誇張や伝聞におけるブレなどもあるため、一概にそれだけで存在しない、とは言えないかもしれませんね。

明治時代から国民に親しまれてきた人物でもあり、5代の天皇に仕えた忠臣です。
論争するよりも、その精神を汲み取りたいものですね。

 

竹内文書とは?

昭和3年、竹内巨麿により公開された文書です。キリストや釈迦が当時の日本に来訪していたこと、神武天皇以前から皇朝が始まっていたことなどが、述べられています。
キーポイントとなるのが、この文書が平群真鳥(ヘグリノマトリ)によって書かれていた、ということです。
平群真鳥は平群木菟の子供です。なんと、先ほど述べていた、仁徳天皇時代に生まれていた平群木菟なのです。
つまり、武内宿禰の孫が平群真鳥なのです。この文書が正確なものであれば、武内宿禰の実在を証明することにも、繋がるかもしれないのです。

2-3.裁判にもなった論争
武内宿禰は国民的な人気も高く、紙幣にもなっていたため、人々の気持ちに影響力を持っていました。
竹内巨麿は天津教を創設し、その神職でもあったため、政府は危機感を持っていました。
昭和5年に竹内巨麿は詐欺容疑で拘束されますが、不起訴で釈放されます。
続いて昭和12年、不敬罪と文書偽造行使罪・詐欺罪などで逮捕され、一時は有罪判決となりましたが、最高裁で無罪となりました。宗教問題に裁判所は関与しないという立場をとったのです。

 

武内宿禰の子孫について

竹内巨麿とは別に、武内宿禰の子孫であるとされる人物が、いらっしゃいます。
竹内 睦泰氏です。

1966年生まれで大阪府出身。某有名予備校の名物講師でもありました。日本歴史文化研究機構の理事長であり、第七十三世武内宿禰と言われています。
竹内 睦泰氏によると、竹内巨麿の竹内文書は偽物であり、古代の歴史については、口伝で伝えられてきているとのことです。

いずれにせよ、武内宿禰の大きな功績により、その精神が受け継がれていると考えるべきなのでしょう。

 

武内宿禰は紙幣にもなっている

これだけ偉大な人物ですから、明治・大正・昭和時代に紙幣の肖像となっています。
明治時代は一円紙幣・五円紙幣として、昭和時代には一円紙幣、二百円紙幣として発券されています。


これは、明治の一円紙幣です。


武内宿禰の五円紙幣と二百円紙幣が写っています。他の紙幣にも、古代の有名な人物が写っていますね。

 

武内宿禰と関連のある神社

これだけ功績があり、人望もあった武内宿禰ですから、当然神様として祀られています。
高良神社(福岡県)・気比神宮(福井県)・宇部神社(鳥取県)が有名です。

高良神社で祀られている高良玉垂命が武内宿禰であるとされています。そのため、応神天皇が祀られている石清水八幡宮や全国各地の八幡社の境内に高良社が祀られるようになったのです。
応神天皇の忠臣であったわけですから、死してなお、神として一緒に祀られたのですね。ご利益としては厄除け・延命長寿があります。武内宿禰ですから当然ですね。


高良神社の御朱印です

宇部神社は648年に創建された武内宿禰を主祭神として祀る神社で、武内宿禰が紙幣にもなったことから、商売繁盛・金運上昇・長寿のご利益があるとされています。


宇部神社の御朱印です

気比神宮には仲哀天皇・神功皇后・応神天皇とともに武内宿禰が祀られています。やはり、仕えた天皇とともに祀られているのですね。
ご利益としては(武内宿禰に関しては)延命長寿・無病息災・武運長久です。


気比神社の御朱印です

 

まとめ

武内宿禰は、なぜこれだけ皆に愛されてきているのでしょうか?

橋本ユリ
それは、真っ直ぐな忠義心、実直にコツコツ行動し、見事な結果を残したからだと思います。


よく、正直者はバカをみる世の中と言われますが、360年の生涯でブレずに、生き生きと輝いていた武内宿禰は、現代の希望なのかもしれません。

逸話は、彼をたたえるために作られた、「勲章」のようなものだと思います。(実際に、できる形でやっていたかもしれませんね。例えば、大岩を割る逸話は、武内宿禰が指揮して、皆で割ったのかもしれませんが、率先し卓越した能力でやり遂げたから、逸話になったのかもしれませんね。)

日本人の魂の原点でもある武内宿禰。ぜひ神社を参拝し、思いを馳せてほしいですね。

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