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神道専門家の羽賀ヒカル監修のもと、架空のキャラクターの
新米巫女の橋本ユリが、神社に関する知識をわかりやすく解説します。

神となった超人「楠木正成」を祀る神社

2019年10月29日

こんにちは!北極神社の新米巫女、橋本ユリです。

楠木正成といえば、歴史の授業などで耳にしたことが一度はあるかと思います。鎌倉幕府を倒すことに貢献し、今日に至るまで「日本屈指の軍師・戦略家」「清廉潔白な男気あふれる人物」として称えられています。

楠木正成はもちろん人間ですが、実は神様としても祀られているのです。その理由は彼の生涯をたどれば解りますので、後半述べていきたいと思います。
まずは、楠木正成が祀られている神社、縁の深い神社をご紹介します。

それでは参りましょう!

楠木正成を祀る神社

楠木正成を祀る神社は主に関西方面に多くあります。

湊川神社

有名なものとしては湊川神社が、兵庫県神戸市にあります。明治5年に創建されました。後程くわしく述べますが、楠木正成のすばらしい生涯が、人々の心を動かしたからなのです。

大阪には楠公神社があります、実はこの神社は、令和元年7月15日に創建されました。つい先日ですよね。

大阪府河内長野市は、楠木正成と縁があります。楠木正成が成人するまえに、勉学にいそしんだお寺などがあり、河内長野市は「中世に出逢えるまち~千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫~」として、日本遺産に認定されてもいるのです。

元々「楠公さん」として親しまれていただけに、地元の方々は大変喜んでいるようですね。
湊川神社から御霊を分霊し、創建されました。加賀田神社の境内に楠公神社があります。

楠木神社

群馬県館林市には楠木神社があります。
こちらも楠木正成の生涯と大きな関わりがあります。

楠木正成は湊川の戦いで敗れ、1336年(建武3年)自害しました。その首は足利尊氏によって、敬意をこめて遺族に返されたとされています。
しかし、逸話が残っており、足利尊氏が返した首は偽物で、本物の首は生き延びた家臣たちによって、大切に保管されていたというのです。
その家臣たちが東へ向かって逃げる際に、現在の館林市に立ち寄り、山中の大木の下で休んだそうです。
家臣たちがいざ出発しようとして、大切な首の入ったカゴを持ち上げようとしました。ところが、カゴが急に重くなってしまい、動かすことができなくなってしまったのです。

家臣たちは驚き、話し合いましたが結局、「これは楠木正成公が、この地に留まりたい」ということなのだろうと解釈し、その大きな木の下に楠木正成の首を埋め、神社を創建してその御霊を祀ったことから、楠木神社ができたという話です。真実かどうかは定かではありませんが、確かに家臣たちは奥羽の北畠顕家を頼って落ち延びていたので、ルートとしてはありえるかもしれません。

吉水神社も楠木正成と関係があります。この神社の主祭神は後醍醐天皇ですが、楠木正成は南朝に味方していたので当然、後醍醐天皇の配下でした。
特に楠木正成は数々の武功とその忠誠心から、この神社の配祀(主祭神と縁のある神を併せて祀ること)となっているのです。
京都にある石清水八幡宮も、楠木正成と縁があります。
境内の中に生い茂っているクスノキは、楠木正成が戦勝祈願のために植えたものとされており、京都府の指定天然記念物ともなっております。

このように、楠木正成が祀られている、縁のある神社は多くあります。それらを辿っていくと、楠木正成の生きざまを感じられるかもしれません。
これらの神社のなかでも、筆頭となるのが湊川神社です。

 

楠木正成の魂が祀られている湊川神社

楠木正成が主祭神として祀られているのが、湊川神社です。

橋本ユリ
どのようにして創建されたかを知ると、ますます楠木正成のファンになると思います。


そもそも、楠木正成は「智・仁・勇」を兼ね備えた清廉潔白で忠義の武人として、多くの日本人から敬意をはらわれてきたのです。徳川光圀・吉田松陰や坂本龍馬もその生きざまを尊敬し、楠木正成のお墓を参拝していたそうです。

楠木正成の生涯については後程述べるとして、どのような経緯で、湊川神社は創建されたのでしょうか?

実は、湊川は楠木正成とその一族が自害した場所なのです。
一時は京都を占領した楠木正成ですが、武士たちへの恩賞が少なかったことや、後醍醐天皇にも参戦いただき、挟み撃ちするという作戦もかなわず、足利尊氏を迎え撃つために湊川に出陣します。

楠木正成の軍が700人だったのに対し、足利尊氏の軍は25000人と言われています。
戦う前から勝敗は決していたにも関わらず、楠木正成は敢えて死地に赴くのです。

それは、後醍醐天皇に対する忠義と己の信念を貫こうとする心意気だったのでしょう。
楠木正成は奮戦しますが手勢も100人を切り、追いつめられたところで自ら命を絶ちました。
楠木正成の首は、遺族に返され観心寺に埋葬されたと言われています。
しかし、遺体はこの地に葬られ、その塚はその地の人々によって大切に祀られました。

記録によると、豊臣秀吉の検地の際に、神聖な楠木正成が祀られている地と聞き、この地を免租地としたそうです。また、江戸時代に尼崎藩主の青山幸利によって、五輪の石塔が建てられました。

大きな転機となったのは、水戸光圀公によって墓が建立されたことです。「嗚呼忠臣楠子之墓」という石碑が建てられたことにより、多くの人に楠木正成の墓のことが知れ渡ることとなりました。

幕末になると、楠木正成の清廉潔白な人柄、その国を想う気持ちを慕って、倒幕の志士たちが参拝したそうです。

幕末には、薩摩藩や尾張藩・水戸藩が神社創建を計画しますが、いずれも明治維新前後の混乱により、頓挫してしまいます。
明治になり国も治まり、明治天皇が楠木正成の精神を、日本の国民にあまねく伝えていきたい、とお考えになられ、神社を作ることが決まったのです。
そののち明治5年、湊川神社が完成しました。

橋本ユリ
有名な湊川神社ですが、どのようなご利益があるのでしょうか?


 

湊川神社のご利益は?

楠木正成が聡明な軍略家だったことから、学業成就・合格祈願がまず挙げられます。

また、楠木正成が使った戦術に情報戦があったため、情報業の繁栄、その優れた行軍、手足のように軍を操るところから流通業の繁栄交通安全・家内安全も挙げられます。

楠木正成の精神は「国の発展を願う」でしたから、それに通ずる願いであれば、ご利益があると思います。

 

御朱印 と御朱印帳

湊川神社の御朱印は4種類あります。

まずは湊川神社の御朱印です。

シンプルな中にも、荘厳な雰囲気があります。

 

次が大楠公墓所の御朱印です。

菊の紋がとても印象的です。
三つ目が神戸七福神めぐり・毘沙門天の御朱印です

中央の毘沙門天の文字が迫力満点ですね。

 

最後に楠本稲荷神社の御朱印です。


湊川神社で4つの御朱印を揃えることができるのですね。ちなみに、湊川神社の御朱印帳も、とてもおしゃれです。

菊水の刺繍と金色の御朱印帳の文字、全体のデザインがとても上品ですね。

 

湊川神社のアクセス情報

湊川神社はとてもアクセスの良い場所にあります。
どの電車からも近くになるので、下記の住所を参照しつつ、最寄り駅からは歩いてみてください。

◎各電車・JRの最寄り駅
・JR神戸線・・・「神戸駅」から徒歩3分
・阪急・阪神・山陽各電車・・・「高速神戸駅」下車すぐ(東改札を出て、右手の階段を上がる)
・市営地下鉄山手線・・・「大倉山駅」から徒歩5分
・市営地下鉄海岸線・・・「ハーバーランド駅」から徒歩5分

お車の場合は、阪神高速3号神戸線となります。
ちょうどリニューアル工事も終わったところです。大阪方面からお越しの場合は京橋ランプにて下車、姫路方面からは柳原ランプ下車が便利でしょう。

また、無料シャトルバスを使って行くことも可能です。JR神戸駅前から、umie モザイク(大型商業施設)を回る、循環バスがあります。湊川神社前で降りると、すぐに神社があります。

お問い合わせ先・住所

湊川神社
TEL 078-371-0001
〒650-0015 兵庫県神戸市中央区多聞通3-1-1


 

駐車場情報

遠方からはお車でお越しの方も多いのではないでしょうか?

まずは湊川神社の駐車場です。20台の車が止められます。無料です。
境内と隣接している駐車場ですが、開門が6時、閉門が18時ですので、その時間帯に使うことができます。神社関係者にお問い合わせしたところ、やはり休日は混みあうということでした。

ただ、この辺は徒歩2分圏内に、パーキングも多く存在しています。時間帯によっては料金も変動しますが、概ね20分100円~200円です。

特に大きな駐車場は、タイムズ神戸駅北の地下駐車場です。概要は下記の通りです。

兵庫県神戸市中央区多聞通3-1
166台
24時間営業
07:00~22:00 60分/¥400 22:00~07:00 60分/¥100
月-金:当日1日最大料金¥1000(24時迄)
土・日・祝:当日1日最大料金¥1300(24時迄)
※料金等は変動している場合もありますのでご了承ください。

穴場としては、阪急電鉄の高速神戸駅近くの、ライフ神戸駅前店の駐車場です。こちらは、ライフで500円買い物をすると、駐車が90分無料となります。ただし、90分を過ぎると30分で200円お金がかかります。その場合は、レジかサービスカウンターで清算することになりますのでご注意ください。ここからでも徒歩3分で、神社まで着くことができます。たくさんの車が止められるのでおすすめです。下記が概要となります。

ライフ神戸駅前店
電話番号:078-371-6511(受付時間:開店~21:00)
住所:神戸市中央区中町通3-2-15
営業時間:1F=9:00~25:00 ・2F=9:00~22:00
駐車場台数:182台

橋本ユリ
次に、楠木正成の波乱に満ちた生涯について、述べたいと思います。


 

楠木正成の生涯

楠木正成は1294年に生まれたとも言われていますが、定かではありません。
橘氏の末裔であると記述されていますが、実際のところはどうなのでしょうか。

太平記によると、楠木正成は河内金剛山の近く、大阪の千早赤阪村で生まれたとされています。幼名は多聞丸と言い、その名のごとく、よく見聞きし一を聞けば十を理解するような子供だったようです。
寺院での勉学でも才覚を発揮し、のちに「智・仁・勇の三徳を備えた武人」と称えられる片鱗を見せています。

楠木一族は金剛山の土豪だったと言われ、水銀の売買で財をなした、と言われています。定かではありませんが、逸話として商人が水銀の目方を偽って、安く買おうとしたのを、幼かった正成だけが気づいた、という話も伝承として残っています。

また、幼少期から野山で遊んでいるときに、かくれんぼでは絶対に負けなかったとか。それが後のゲリラ戦法に、繋がったのかもしれません。また、商売をしている家で育ったということは、人の表裏、心の動きに敏くなったのかもしれません。

鎌倉時代の末期は、幕府の威光も地に落ち、北条高時の悪政により世は乱れ、人々は苦しんでいました。
当時はまだ正成も幕府に仕えており、摂津の渡辺党や南大和の越智氏を討伐しておりました。
圧政による民の苦しみに疑問を持ちつつも、正成は高時に従っていました。

しかし1331年、幕府を倒すために後醍醐天皇が京都で挙兵するのです。
幕府の威光は衰えたとはいえ、まだまだ強大な軍事力を持つ幕府に歯向かう人は、あまり居ませんでした。

そんな中、真言宗の僧侶を通じ、後醍醐天皇から誘いを受けた正成は、後醍醐天皇の人々を圧政から救う理想に心うたれて、後醍醐天皇に加担します。
そして、河内の赤坂城で挙兵するのです。1331年、正成38歳のときです。

とはいえ、その軍勢はおよそ700人と言われています。
対する幕府軍は10万人を超す大軍で、赤坂城はひとたまりもないと思われました。
幕府軍はおのおの勝手に攻めかかり、城壁を登ろうとしたときに、近くの山に布陣していた正成の弟、正季に狙い討ちされて、バタバタと倒されました。また、よじ登っていた城壁はハリボテで、バラバラと崩れ去り、上から大岩や大木が降りそそいだため、1000人以上の兵が失われました。
また、鎧を脱いで休憩している幕府軍を、少人数で討ち果たすゲリラ戦や、指揮命令系統を惑わす情報戦を展開し、幕府軍はとうとう兵糧戦に持ち込むことにしました。
正成もこれに打つ手はなく、20日ばかりで城は落城しました。

また、後醍醐天皇が捕らえられたとの一報も入り、正成は赤坂城に火を放ち、その混乱に乗じて脱出するのです。
翌年に正成は復活し、大軍を集めて河内や和泉を攻め落とし、京を落としそうな勢いにまでなりました。

また、幕府が差し向けた名将、宇都宮高綱との戦では、農民に松明を持たせて、夜通し動き回るということを三日間行い、疲労困憊した宇都宮の軍は、退却するのです。
翌年の1333年、千早の戦いが行われます。これは、幕府が威信をかけて正成を滅ぼすために、8万の軍勢を向かわせたのです。
正成は千早城に籠城し、幕府軍は再び兵糧戦に持ち込みます。しかし、これは作戦で、千早城には抜け穴があり、そこからどんどん兵糧が運び込まれていたのです。
逆に、幕府軍は大軍のため兵站を保つことができず、3か月後に幕府軍は潰走してしまうのです。
この戦により、完全に幕府の権威はなくなってしまい、各地で豪族が蜂起して、足利尊氏は京都を占領、新田義貞は北条高時を討ち、鎌倉幕府は滅亡したのです。

1334年、後醍醐天皇は朝廷政治を復活させ、建武の新政が始まります。
今までの失敗を踏まえて武家の力を削ぐやり方や、朝廷を立て直すための重税に対して、足利尊氏が反発。1335年、鎌倉で挙兵して京へ攻めかかります。

しかし、足利尊氏は敗れ、九州へと逃れていきます。その際、付き従う武家が多かったために、先を読んだ正成は後醍醐天皇に、足利尊氏との講和するよう提案しますが、受け入れられませんでした。
正成が案じた通り、新政権への武家の反発は収まらず、翌年1336年4月、足利尊氏が九州で挙兵すると多くの豪族や武家が従い、京に攻めのぼってきます。
尊氏の軍は35000人と大軍だったのに対し、後醍醐天皇側は、わずか数千人しかいない状況でした。
そこで正成は、後醍醐天皇と新田義貞の軍による挟撃作戦を提案しますが、天皇が都から離れるのはよろしくない、という意見により却下されます。

楠木正成は、湊川で尊氏軍を討伐するよう命じられますが、その兵力はなんと700人。
この時点で敗北は決定的だったのです。それは、自分が敗れることを予見した、後醍醐天皇あての手紙でも解ります。
それであっても、忠義のために、正成は死地に赴きます。その途中で息子の正行に、河内に帰るように諭します。これが「桜井の別れ」です。
1336年5月、大軍の前に為すすべもなく楠木正成は敗れ、かの地で弟や一族と共に自害するのです。数え年で43歳でした。

 

まとめ

なぜ、ここまで楠木正成が多くの日本人から支持されるのでしょうか?

それは、いまだに「日本第一の軍師・戦略家」という優れた才能や、数々の武功によるのかもしれません。

しかし、一番心に響くのは、負けると解っている戦に赴き、忠義を果たしつくした心、正しいと思ったことを進言して受け入れられなかったときでも、一度忠義を誓った天皇に対して、力をつくしたことによると思います。

世知辛い世の中ですが、損得勘定抜きに、清々しく生き抜いた楠木正成は、人々から讃えられるのは、当然かもしれません。

橋本ユリ
どうか参拝する際には、楠木正成の想いも感じて頂ければ幸いです。
その清々しさとパワーを味わってきてください。

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