美人三姉妹 宗像三女神の秘密
こんにちは!北極神社の新米巫女、橋本ユリです。
橋本ユリ
今回は、「美人三姉妹 宗像三女神の秘密」に迫ってみます!
それでは参りましょう!
目次一覧
宗像三女神とは
宗像三女神(ムナカタサンジョシン)とは、
- 多紀理毘売命(タキリビメノミコト)
- 市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)
- 多岐都比売命(タキツヒメノミコト)
の三人の女神の総称です。
海の安全を守る神様で、いずれも絶世の美女として大変名高く、また広く知られています。
宗像三女神の出生
その出生には、天照大御神(アマテラスノオオミカミ)と須佐之男命(スサノオノミコト)が大きく関係しています。
須佐之男命(スサノオノミコト)は母である伊邪那岐命(イザナミノミコト)を慕い嘆き悲しんでばかりで父である伊邪那岐命(イザナギノミコト)に頼まれていた海原を納めることをしていなかったので伊邪那岐神(イザナギノミコト)から怒りをかい追放されることとなってしまいました。そこで須佐之男命(スサノオノミコト)は母の伊邪那岐命(イザナミノミコト)がいる黄泉の国へ行く前に姉である天照大御神(アマテラスノオオミカミ)に挨拶をすべく高天原(天照大御神(アマテラスノオオミカミ)が治めている天上界)に向かいました。須佐之男命(スサノオノミコト)が天にのぼるだけでも山川はとどろき、大地は震えました。
これを聞いた天照大御神(アマテラスノオオミカミ)は驚いて、弟の須佐之男命(スサノオノミコト)が高天原を奪いに来たと勘違いをしました。そして、須佐之男命(スサノオノミコト)に『何故高天原にのぼってきたのだ』と聞き、それに対して須佐之男命(スサノオノミコト)は『私にやましい気持ちはありません、母のいる黄泉の国へ行く前に挨拶に伺っただけです』と答えました。しかし天照大御神(アマテラスノオオミカミ)は『やましい気持ちがないことをどうやって証明するというのだ』と言いました。
すると須佐之男命(スサノオノミコト)は『お互いに誓約(うけい)をして、子どもを生みましょう』と答えました。誓約(うけい)とは占いのことです。
こうして、二柱の神様は天の安の河をはさんで誓約(うけい)を行うことにしました。
まず須佐之男命(スサノオノミコト)が天照大御神(アマテラスノオオミカミ)に剣を譲り渡しました、受け取った天照大御神(アマテラスノオオミカミ)は、なんとその剣を歯で砕き割り、一気に吹き出しました。その吹き出した霧の中から多紀理毘売命(タキリビメノミコト)、市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)、多岐都比売命(タキツヒメノミコト)が生まれたといいます。なんとも神秘的なエピソードを持つ神様です。
元来は、北九州地方の宗像氏(むなかたし)を中心とした海洋一族が信仰宗像まで侵攻すると、中国や、朝鮮半島にまで伝えられるようになりその名が大きく知られることとなりました。
特に北九州地方にある玄界灘(げんかいなだ)は危険な荒海だったため、航海の際には宗像三女神に安全を祈願した。このような流れから海や航海安全の神の神として、広く日本中へ伝播されていったのです。
宗像三女神の名前
宗像三女神を総称した様々な名前
- 宗像三神(むなかたのかみ)
- 宗像神(むなかたのかみ)
- 道主貴(みちぬしのむち)
- 胸形神(みちぬしのむち)
道主貴(みちぬしのむち)とは?
宗像三女神は日本書記の中で『道主貴(みちぬしのむち)』という呼称もあります。『貴』というのはもっとも貴い神様に贈られる呼び名で古事記、日本書記の中でこの『貴』が使われているのは大日靈貴(おおひるめのむち/天照大御神の別名)と大己貴(おおなむち/大国主神の別名)の二柱だけなのでいかに国家から重要視されていたかが分かります。
上記のように宗像三女神は様々な呼称がありますが、他にも漢字の別表記があり、しかも古事記や、日本書記の文献の中では長女、次女、三女の名前の順番が違っていたり、守っている島が入れ替わったりしています。
宗像三女神それぞれの呼称
- 多紀理毘売命(タギリビメノミコト) (田心姫神 田霧姫命 奥津島比売命)
- 多岐都比売命(タキツヒメノミコト) (湍津姫神 多岐津姫神 田寸津比売命)
- 市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト) (狭依毘売命 市杵島姫神)
化生した順
『古事記』では、化生した順に以下の三神としている。
沖ノ島の沖津宮 – 多紀理毘売命(タキリビメノミコト、 別名 奥津島比売命(おきつしまひめ))、大島の中津宮に座す 市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト、 別名 狭依毘売(さよりびめ))、田島の辺津宮(へつみや)に座す 多岐都比売命(タギツヒメノミコト)この三社を総称して宗像三社と呼んでいる。
多紀理毘売命(タキリビメノミコト)は、奥津島北売命(オキツシマヒメノミコト)という別称を持っており、これは自身が鎮座する、玄界灘に浮かぶ沖ノ島の沖津宮に由来するとされており、また『タキリ』は天照大御神(アマテラスノオオミカミ)が吹き出した霧と因果関係があるといわれています。
市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)の名前の由来にも大きな特徴があります。『イチキ』はイツクの語源と言われており、そのため祀られている寺院が厳島神社であるということと大きく結びつきます。さらに市寸島(いちきじま)は神様を祀る聖地であるという意味の『斎き島』(いつきしま)のことを指すなど、名前一つとってみても大変に意味深いですね。
多岐都比売命(タキツヒメノミコト)は大島の中津宮に鎮座しています。名前にある『タキツ』は玄界灘の激流を意味する『たぎる』からきているのではないかと言われています。
橋本ユリ
『日本書紀』では以下のようになっています。
日本書記 本文
- 田心姫(タゴリヒメ)-沖津宮
- 湍津姫(タギツヒメ)-中津宮
- 市杵嶋姫(イチキシマヒメ)-辺津宮
第一の一書
- 瀛津嶋姫(オイツシマヒメ)-沖津宮
- 湍津姫(タギツヒメ)-中津宮
- 田心姫(タゴリヒメ)-辺津宮
第二の一書
- 市杵嶋姫(イチキシマヒメ)-沖津宮
- 田心姫(タゴリヒメ)-中津宮
- 湍津姫(タギツヒメ)-辺津宮
第三の一書
- 瀛津嶋姫(オキツシマヒメ) 別名 市杵嶋姫(イチキシマヒメ)-沖津宮
- 湍津姫(タギツヒメ)-中津宮
- 田霧姫(タギリヒメ)-辺津宮
上記のように古事記、日本書記で御神名が違うほか、日本書記の中でも御神名が違っていたり、長女、次女、三女が入れ替わっていたりしますが、よく知られているのは、
古事記では長女が多紀理毘売(タギリビメ)が奥津宮、次女が市寸島比売(イチキシマヒメ)が中つ宮、三女が多岐都比売(タキツヒメ)が辺つ宮に鎮座していると記されています。ちなみに宗像は胸形と記されています。
一方、日本書紀では長女が田心姫(タゴリヒメ)、次女が湍津姫(タギツヒメ)、三女が市杵嶋姫(イツキシマヒメ)の順に記されています。現在の宗像大社は日本書紀に従い、沖ノ島の沖津宮に田心姫(タゴリヒメ)、大島の中津宮に湍津姫(タギツヒメ)内陸の田島の辺津宮に市杵嶋姫(イツキシマヒメがそれぞれ祀られその三宮を総称して宗像大社としています。
宗像三女神の正体
市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)と弁天の深い関係とは?
市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)は、三女神の中でも特に際立った美貌の持ち主として知られています。
その市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)は、理由こそ定かではありませんが本地垂迹の説明の思想から、七福神のひとりである弁天様も水の神様であり、また美人としても誉れ高いという共通項を持つことから化身とされたのではないかと言われています。
本地垂迹とは簡単に説明すると、神は仏が世の人を救うために姿を変えてこの世に現われたとする神仏同体(または神仏習合)の説のことです。
宗像三女神と瀬織津姫(セオリツヒメ)
宗像三女神(特にイチキシマヒメ)は、弁財天の他に『瀬織津姫』(セオリツヒメ)という神様とも同一視されています。
瀬織津姫(セオリツヒメ)という神様は、祝詞の大祓詞(おおはらえのことば)にのみ出てくる祓戸大神という女神ですが、謎が多いため様々な神様と同一視されています。
大祓詞の内容を簡単に説明すると、『神々が、世の中の罪や穢れを、遠くの山の上にまで行って集めてきて、川の流れに流すと瀬織津姫(セオリツヒメ)が大海原の底にいる神様に流れてきた罪や穢れを渡していって、黄泉の国(根の国)に送り返してくれますよ。罪や穢れがなくなってこの世は清くなりますよ。』という意味になります。
すなわち、瀬織津姫(セオリツヒメ)は山中から流れ出る速川の瀬に坐し、人々の罪穢れを海原まで流してくださる女神であり、日本の神道の『お祓い』や『祓え』の考え方にとって必要不可欠な重要な役割を果たす神様なのです。
瀬織津姫(セオリツヒメ)は、祓神や水神として知られいます。瀧の神・河の神でもあるのです。その証拠に瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多いのです。
宗像三女神のご利益
元来は、北九州地方の宗像氏(むなかたし)を中心とした海女の一族が信仰宗像まで侵攻すると、中国や、朝鮮半島にまで伝えられるようになりその名が大きく知られることとなりました。
特に北九州地方にある玄界灘(げんかいなだ)は危険な荒海だったため、航海の際には宗像三女神に安全を祈願した。このような流れから海や航海安全の神の神として、広く日本中へ伝播されていったのです。
一般的には以下の御利益があると言われています。
- 海上安全
- 交通安全
- 豊漁
- 国家安泰
- 商売繁盛
- 財運増大
- 芸能上達
仏教の弁財天と同一視されることによって、金運、財運、芸事の神様としての御利益も有名になっております。
宗像三女神の伝説
天照大御神(アマテラスノオオミカミ)からのご神勅
宗像三女神は天照大御神(アマテラスノオオミカミ)から重要な役割を直々にご神勅を授かった大変貴い神様でもあります。
その使命は天孫降臨と言われていて、そのご神勅を天照大御神(アマテラスノオオミカミ)から直々に授かったのは宗像三女神と邇邇芸命(ニニギノミコト)のみと言われています。
宗像三女神は天照大御神(アマテラスノオオミカミ)から『あなたたち宗像三女神は、筑紫の国の宗像の三宮に降臨し、歴代の天皇のまつりごとを助け、祭祀を受けられよ』とご神勅授けます。
そうして道を示す神様として宗像三女神は宗像大社のある地に降り立つのです。
宗像三女神と大国主大神(オオクニヌシノミコト)
古事記においては大国主大神(オオクニヌシノミコト)は、奥津宮神・長女の多紀理毘売(タギリビメ)を娶って二柱の神を産んだとされます。
しかし、様々な説があり市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)の夫が大国主大神(オオクニヌシノミコト)とするものもあり、ここは諸説あります。
さらにある伝説では長女多紀理毘売(タギリビメ)は一生独身を貫き女人禁制の要因となる伝説も残しています。
宗像三女神と宗像氏の関係
日本の神話は実際に存在した民族間の闘争などを神様という形で表現したものだといわれています。
宗像とは福岡の西部であり、宗像氏とは現在の福岡県の北九州市と福岡市の中間にある地域に加え玄界灘に至るまで広大な海域を支配していたとされる海人族(航海や漁業のように海上において活動していて、のちには海上輸送で力をつけることになった海洋豪族の一族)のことです。宗像氏は名門中の名門で戦国時代までその名が続いていました。
古事記には宗像三女神は胸形(宗像の地)の奥津宮に多紀理毘売(タギリビメ)が、中津宮に市寸島比売(イチキシマヒメ)が、辺津宮に多岐都比売(タキツヒメ)が宗像氏により祀られると書いています。
すなわち、宗像三女神の三柱は宗像の地を支配した宗像氏の祀る神様が、日本神話に取り入れられ女神として表現されたのではないかとされます。
宗像三女神とオリオンベルト
宗像三女神はオリオンのベルトを意味するという説があります。
オリオン座は冬の星座で、その中央に三つの星が並んでいます。この三つの星は参宿三星と呼ばれ真東から昇って真西に沈みます。東の空に縦一文字昇り、西の空に横一文字に成って沈むことから、東西の方角を確認するための星として古くから航海の目印とされています。
そして日本においては星神として崇敬されているのです。
航海において重要な星として昔から崇められているオリオンの三つの星は三女神に神格化されて宗像大社に祀られているのです。
沖ノ島は世界遺産
【多紀理毘売命(タキリビメノミコト)、市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)、多岐都比売命(タキツヒメノミコト)】
2017年7月に日本において21番目に世界遺産として登録された『神宿る島・沖ノ島』登録されたのは沖ノ島だけではなく8つからなる構成資産なのです。
宗像大社、多紀理毘売(タギリビメ)が鎮座している沖津宮がある沖ノ島と、島に付随する3つの岩礁(小屋島、御門柱、天狗岩)をはじめ、本土から約11㎞に浮かぶ多岐都比売(タキツヒメ)トが鎮座する大島の中津宮と沖津宮遙拝所、本土の市寸島比売(イチキシマヒメ)の鎮座する宗像大社辺津宮、そして信仰を支えた宗像族の墓とされる新原・奴山古墳群からなっています。
中でも沖ノ島は一般の人は年間200人しか上陸できず、しかも女性は入ることができない女人禁制の島として知られます。
一般人が上陸出来るのは年に一度だけです。上陸するときは全裸になり海中で穢れを祓う「禊」をしなければなりません。また、島から木や草、石のひとつも持ち出してはいけません。女人禁制、島内で四つ足の動物をたべてはいけない、また、沖ノ島で見聞きしたことを口外してはならないということが現在でもなお固く守り続けられているのです。
古事記では奥津宮(沖津宮)の多紀理毘売(タギリビメ)が大国主大神(オオクニヌシノミコト)と結婚したとされていますが、他の説では沖津宮に鎮座する多紀理毘売(タギリビメ)は結婚をせず生涯独身で沖津宮から海や航海の守護と外敵から日本を守るという重要な役割に徹したとされます。
生涯結婚をしなかったため、一般の女性がくると嫉妬してしまい、不幸に見舞われると言われるようになったのです。
宗像三女神のスピリチュアルな話
宗像大社の中津宮は七夕伝説の発祥の地!?
宗像大社の中津宮は次女の神様の湍津姫神(タギツヒメノカミ)をお祀りしています。
中津宮の境内の中には『天真名井(あめのまない)』という湧水があります。そして社の中には小川が流れています。
実はこの小川が七夕に登場する『天の川』ともいわれているのです。境内には織姫や彦星にまつわる神様を祀っているお宮もあるのです。
昔、唐の国の貴公子が織女を伴って、帰国の途中深い恋仲となりましたがその恋は身分の違いなどの為の叶わぬ恋で二人は日本について離れ離れになってしまいました。
それから唐の貴公子は織女を想い日々を過ごしましたがある夜、夢枕で神のお告げを受けました。それから貴公子は筑前大島の中津宮に来て、天の川にたらいを浮かべ水鏡に映る織女との逢瀬を楽しみに、神に仕える身となったのでした。
このような七夕伝説の発祥となる伝説があり、七夕祭りは鎌倉時代から行われているのです。
宗像三女神を祀る神社
宗像三女神を祀る代表的な神社は、
- 宗像大社
- 厳島神社
- 江島神社
- 松尾大社
- 石神神社
ですが、宗像系の神社は日本で5番目に多いとされ、そのほとんどが伊勢、志摩から熊野灘、瀬戸内海を通って大陸へ行く経路に沿った所にあります。
厳島神社
宗像三女神を祀っている代表的な神社と言えば『厳島神社』です。場所は広島県廿日市市宮島町です。
厳島神社の由緒は、宮島に御鎮座地を探されるにあたり、宮島を治める佐伯鞍職(さえきのくらもと)に神勅が下ったのです。鞍職(くらもと)は大神様が高天原から連れてきた神鴉(ごからす)の先導のもと、御祭神と共に島の浦々を巡り、海水の差し引きする現在地を選んで御社殿を建てました。時は推古天皇御即位の年(593年)であると伝えらています。
また、日本三景の一つとして数えられ、清らかで美しいその景色は人々の心をつかんで離しません。平清盛の篤い崇敬を得て平安時代の後期に現在のような見事な寝殿造りの社殿が建立されました。
出雲大社
出雲大社と宗像三女神は一見関連性がないように思えますが、二つの関連性があります。
出雲大社のご祭神である大国主大神(オオクニヌシノミコト)は宗像三女神の長女である沖津宮に鎮座する田心姫(タゴリヒメ)を妻としました。
大国主大神(オオクニヌシノミコト)とは日本を開拓し出雲の支配権を得た建国の神と言われています。二柱から生まれたのは事代主神(コトシロヌシノカミ)と言われています。
事代主神(コトシロヌシノカミ)は出雲大社の本殿西側の筑紫社に祀られています。
もう一つの関わりは、宗像三女神は須佐之男命(スサノオノミコト)の剣から生まれたので須佐之男命(スサノオノミコト)の子どもと言われています。
他の説では天照大御神(アマテラスノオオミカミ)が須佐之男命(スサノオノミコト)の剣を噛み砕きその霧から生まれたので天照大御神(アマテラスノオオミカミ)の子どもとも言われています。
ここでは須佐之男命(スサノオノミコト)の子どもとして記載しますが、大国主大神(オオクニヌシノミコト)は須佐之男命(スサノオノミコト)の子孫にあたり、宗像三女神の長女田心姫(タゴリヒメ)の夫、そして宗像三女神は須佐之男命(スサノオノミコト)の子どもなのでとても深い関わりがあると言えます。
まとめ
宗像三女神の神々は古事記や日本書紀の中で色々な呼称があり難しいと感じるかもしれませんが、上記に記載したように宗像大社では日本書記になぞって長女は女人禁制の沖ノ島の沖津宮に鎮座する田心姫(タゴリヒメ)、次女は大島の中津宮に鎮座する湍津姫(タギツヒメ)、三女は内陸の田島の辺津宮に鎮座し弁財天とも言われている市杵嶋姫(イツキシマヒメ)というのが一番主流です。
宗像三女神は朝鮮半島に向け宗像大社から並ぶ島にそれぞれ鎮座し、海を見守っています。
天孫降臨の神勅を受けた邇邇芸命(ニニギノミコト)は国内を守り、宗像三女神の三柱の神々は外敵から国を守っています。普段はじっとして動きませんが、嵐がきていざとなったら命がけで身体を張って守ってくれるとても強くて美しい神々です。
また海の神、水の神といことで普段当たり前のように水分を摂り、水を使っていますがそれは当り前ではなくてとてもありがたいことだと、いざというときに身体を張って守ってくれる三女神の神々を感じることが出来ますね。
橋本ユリ
私たちは何気なく生活をしていますが、見えない所でたくさんの神々が守ってくださっているのだということも改めて知ることが出来ます。
この記事をまとめた人
- 神社チャンネルのメインキャラクター。北極神社の新米巫女。2017年、神社参拝セミナーで羽賀ヒカルと出会い、日本人の良さと伝統を伝えていきたい!という思いから、この神社チャンネルサイトが始まりました。(という設定です。)
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