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神道専門家の羽賀ヒカル監修のもと、新米巫女の橋本ユリが、
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神様になった四人の戦国武将

2021年9月29日

あなたの心に火を灯す、東洋思想及び神道研究家の羽賀ヒカルです。

今回のゲストは、国史啓蒙家の小名木善行先生です。

テーマは「神様になった四人の戦国武将」でお届けします。

羽賀ヒカル
私の専門分野の一つが「神道」です。

「神道から見た戦国武将」ということで、実は多くの戦国大名は神社の神様になっています。

伊達政宗公、上杉謙信公、武田信玄公も地元の人たちに尊敬されていたことから神社の神様になっています。


神様になった戦国武将


羽賀ヒカル
-室町→戦国→江戸という時代を作っていく時に、主に活躍した四人の武将たち(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・明智光秀)も、実は神社の神様になってるんですよ。


・豊臣秀吉 豊国大明神(とよくにだいみょうじん)
豊国神社(とよくにじんじゃ)~京都の東山


・織田信長 建勲神(たけいさおしのかみ)
建勲神社(けんくんじんじゃ)~京都の船岡山


・徳川家康 東照大権現(とうしょうだいごんげん)
日光東照宮~ 栃木県日光市
*ある説では江戸(東の方)から日本を照らすという意味


明智光秀
御霊神社(ごりょうじんじゃ)~京都府福知山市
*御祭神の一柱として祀られています


このことは神道霊学(※注)といって、江戸後期~明治にかけて神道を体系づけられた学者さんたちがたくさんいらっしゃいました。

平田篤胤(ひらたあつたね)から始まり、本田親徳(ほんだちかあつ)、大石凝真素美(おおいしごりますび)、そこから繋がって、出口王仁三郎(でぐちおにざぶろう)まで至ります。

※注:神道霊学
幕末から戦前にかけて出現した神秘科学的理論をもった神道の諸派、及びそれらの教義


そこで「一霊四魂(いちれいしこん)」という「人間には四つの魂がある」との考え方があります。

実はこの有名な戦国武将たちは、四柱で一セット、一つの役割を担っていたということなんですね。

この四人全員が共通して、愛知県出身で、産土力・中心的エネルギーが「熱田神宮」なので、熱田神宮の神様「スサノオノミコト」の一霊四魂を、彼らが担っていたんだという話があります

四魂説と4人の武将


羽賀ヒカル
-人間の意識や心が持つ4つの働きという四魂説の話をまずします。


・奇魂(くしみたま)  直感力・頭の良さ・先見の明がある

・和魂(にぎみたま)  和合・融合して、人と仲良くなっていく力

・幸魂(さちみたま)  人の幸せを祈る力

・荒魂(あらみたま)  根性


これらを四人の戦国武将に当てはめます。

奇魂(くしみたま):織田信長
鉄砲隊を起用したり、楽市楽座政策など様々なところで一つの時代を作っていった、信長公の先見の明や直感力

和魂(にぎみたま):豊臣秀吉
これはやはり人たらしと言われた、秀吉公の和合・融合する力

荒魂(あらみたま):徳川家康
家康公がやはり一番根性と忍耐力と待つ力がありました。

幸魂(さちみたま):明智光秀
人の幸せを願う力を担っていたのは、明智光秀と聞いておりました。


明智光秀は本能寺の変で、今までイメージは良くない方も多かったと思いますが、再興されるきっかけになったのが、2020年大河ドラマ「麒麟がくる」にありました。

あの大河ドラマを見ると、今までにないような明智光秀像が描かれたと思っています。

実は明智光秀が、この一霊四魂でいうと「幸魂(さちみたま)」を担当している方であったんですね。

この明智光秀も、千利休や南光坊天海になったという話もあります。

これは明智光秀が歴史の表舞台から消えて以降、この幸魂の役割を担っていたのが千利休や南光坊天海であったように、私は解釈しています。

小名木先生から見て、この一霊四魂と戦国大名について、どのようにお考えですか?



小名木善行
-非常に面白く感じています。

信長・秀吉・家康の3人が大きな役割を担ったのは、どなたでも理解できると思います。

しかし、一霊四魂を持って来ようとすると、どうしても4人にしないといけません。

では、4人目を誰にするのか?と考えた時に、ここに伊達政宗・上杉謙信・武田信玄・今川義元が入るのかと考えると、やはり光秀しかいないんですよ。

そういう中で、光秀はどういう役割なんだ?と考えた時に、やはり「幸魂(さちみたま)」になってくだろうと思います。

そうすると、光秀の役割を魂の次元から考えて見た時に、ものすごく納得できるものになるというのは非常に面白いし、勉強になると思いますね。

織田家『弾正(だんじょう)」の役割



小名木善行
-もともと「建勲神社」は、「勲(いさお)を建てた神様」として、「織田信長」ということになっていますが、信長はもともと若い頃は「大うつけ」「大馬鹿者」と呼ばれていました。

その大馬鹿者が桶狭間の戦いで今川義元を打ち破ったのです。

なぜ、今川義元に立ち向かったのか?

これが非常に面白いところで、戦いそのものを見れば、ダンプカーに原付バイクで挑むような戦いで、今川義元の圧倒的な大軍だったわけですよね。

明らかに勝ち目がありませんでした。


もともと尾張織田家は、天皇直下の組織「弾正」の家柄なんですね。

天皇のすぐ下に太政官があり、太政官はいわゆる政治的意思決定をするだけです。

それを全国の神社と連携を取りながら、様々な示達事項を全国にパッと広げるのは神祇官の役割でした。


例えば、元号が変わった場合に3日で全国隅々まで行き渡ったというほど、当時の神社のネットワークは凄まじいものでした。

しかし、どんなに素晴らしい組織を作っても、組織の中核を担う人たちが自分の私服を肥やすことばかり考えるような政治であったら、世の中がぐちゃぐちゃになりますよね。

そこで置かれたのが、実は天皇直下に置かれた「弾正台」なんです。


弾正台は太政官、今で言うと内閣の閣僚クラスや国会議員といった政府の高官に、もし不祥事・悪いことが発見された場合、問答無用で叩き切る事ができるという権限が与えられていたんです。

だから、下々に対しては「刑部省(ぎょうぶしょう)」という、今の警察機構に当たるものが対応するんですけども、政府の高官はその警察機構の上にいるじゃないですか?

そうすると、警察機構では逮捕や処分することができません。

だから、天皇直下の「弾正台」が悪いやつらをぶった切ろうとして置かれました。


桶狭間の戦いで討たれた今川家は足利将軍家の分家のさらに分家なんですよ。

だから、分家の分家の者が弾正の家を通り、京の都へ上って将軍職を射止めようとするのは全くもってけしからん、そのような者は弾正・信長として絶対に許すわけにはいきません。

たとえ、相手が強大とは言え、戦うべき時には戦わねばならぬということで、信長は熱田神宮で敦盛(あつもり)を舞いました。


平敦盛は源平合戦で、もう敵わない相手だと分かっていても戦うべきときには戦わなければならなかった16歳の少年ですよね。

そのことを歌った謡曲「人間は長く生きたって50年、自分はまだ若いけれども戦わなければならないから俺は戦うんです」という舞を舞いました。

だから、織田家の家臣一同、みんな燃え立ったんです。

「あの大うつけの信長様がやっと目覚めてくれた!信長様やりましょう!」という感じになり、一気にワーッと攻め込んで今川義元の首を取りました。


当時は戦国時代で、国が荒れて大名同士の争いが絶えませんでした。

この争いの中にあって、弾正が目覚めたことが当時の日本全国に激震を走らせたんです。

「よしこの戦国の世を終わらせるために、俺も一肌脱いで尾張まで行くぞ!」と言って、全国から尾張織田家・信長の下に、どんどん全国から名だたるお侍さんや人が集まってきたんですね。


この時に、信長の家中で草履取りをやっていた若者がいたんですよ。

そして、組織が極端に大きくなり、信長はその若者(後の秀吉)に「草履取りでもなんでも構わないから、お前はとりあえず、ここのリーダー・足軽頭になって、あまり偉くないお侍さんたちの面倒をお前が見ろよ」と任しました。

もともと、秀吉はお百姓さんの上がりだという数多くの説があります。

少なくとも、身分のない下々・一般市民の出身だったことは間違いないです。

この一般庶民がなんと、あっという間に大名になってしまって、挙句の果てが毛利攻めを行うようになったのです。

織田家に匹敵する軍事力を持った毛利家と相対して戦うという役割まで与えられるようになって大出世したのが秀吉ですよね。
だから、そういう意味では人生のチャンスを掴んだのです。

ところが、信長が光秀によって討たれてしまうというのが公式な史実になっています。

羽賀ヒカル
実際どうなんですかね?

みんな結託していたという説があるじゃないですか?


信長は生きていた!?



小名木善行
-そもそも、信長を殺すことに関して、絵を書いたのは光秀じゃないかという話なんですよ。

それを信長もきちんと理解し、本能寺の変が起こりました。

信長が分かっていたから、あえて証人ができるだけ減るように、少人数で本能寺にいたのです。

羽賀ヒカル
では、信長は実は生きているということですね。



小名木善行
-はい、信長は生きています。

何が起こったのかというと、実は信長は比叡山延暦寺を攻め、その後に本願寺攻めを行いました。

それまで千年の長きにわたって、仏教勢力は武闘派勢力だったんですね。


日本は、土地は一つなんですけど、実は3つの国に分かれていていました。

まず、貴族が持っている荘園がこの時代にもまだ残っていて、次に仏教寺院が持っている荘園があったんです。

羽賀ヒカル
特に、この時は浄土真宗が強かったですね。



小名木善行
-さらに、それぞれのお寺さんが僧兵という軍隊を抱えていました。

要するに、軍事力を持った勢力が貴族勢力・仏教勢力・武家勢力と実は3つ存在したんですよね。

鎌倉時代に元寇を破ったことで武家の力が強くはなっていたんですけども、それでも仏教勢力が非常に強い軍事力を持っていました。

特に浄土真宗を中心として大名を打ち倒して自分たちで自治国家を作ってしまうことまで始まっていたんです。


戦国時代を終わらせるためには、国内における争いの種をすべて処分しなければいけませんでした。

中でも1000年にわたって政治を動かしてきた、仏教勢力が持っている僧兵という軍事組織を叩き潰す必要がありました。


これは仏教を否定するのではありません。

だから、信長は比叡山の延暦寺攻めをして焼き討ちしました。

今度は、浄土真宗の本家本元の本願寺を攻めて、これもまた徹底的にやっつけたんです。

こうなると、信長は仏敵になるんですね。

仏教から見たら、信長は「第六天の魔王」で、仏教・お釈迦様に刃を向けたとんでもない野郎だということになってしまったんです。


こうなってくると、このまま信長が天下統一を行ったとしても、国内では生き残った仏教勢力によって、ジ・ハード(聖戦)が起こってしまいます。

だから、いつまで経っても信長の命を狙う、織田家の家中の人たちを殺すといった、いわゆるテロリズムが流行ってしまうんです。

それを未然に防ぐためにはどうしたらいいんでしょうか?


そういうことに関する知恵があるのはただ一人、光秀しかいないんですよ。

光秀:「殿、たった一つ手がございます。殿、死んでくだされ!」
信長:「なんで俺が死ななくちゃいけないんだ!」
光秀:「仏教の勢力の全ての恨みを殿一人に集中させます。その殿が部下の手によって殺されて、しかも地獄の炎によって焼かれて死んでしまう。これによって仏教勢力は、悪い奴らをやっつけたということで大人しくさせることが可能です。これは殿に死んで頂くしかございません。」
信長:「そうか、その手があったか!でも、俺本当に死ぬのは嫌だぜ。」
光秀:「殿、世界は広いですよ。殿、お金もたくさんあるんだから、海外へ行かれたらいかがですか?」
信長:「そうかあ、よし!俺はこれからの将来、海外で贅沢三昧して暮らすから、後はよろしく頼むぜ!」

このような話をやっていた可能性があります。

羽賀ヒカル
ヨーロッパで大司教になったみたいな話がありますよね。



小名木善行
-そうですね。

つまり、大芝居を打ったのが本能寺の変だったという話ですね。

ただし、主君を討ったのですから、光秀は誰かに殺されなければなりません。

誰に殺させたのでしょうか?

信長:「秀吉、その役をお前がやれ!」
秀吉:「殿、なんでワシがやらないといかんのですか?」
信長:「お前な、次の天下人になるのは百姓から身を起こしたお前しかいないだろ!お前が天下人なってみろ!世の中がどうなる。家や出自がどうであれ、たとえ百姓の出身であったとしても大出世することができる。これが日本の希望になるじゃないか!お前が次の天下人になれ!」
秀吉:「分かりました!やりましょう!」

このような話になって、秀吉が天下人になったという壮大なドラマがあったとも考えられますね。

家康が秀吉を滅ぼした意外な理由



小名木善行
-そういう中にあって、次に家康が今度は秀吉を滅ぼすことになったんです。

これもなぜかと考えてみると、実は秀吉は日本国内の経済をかなり活性化させたからなんです。


どうやって活性化したかというと「大坂一極集中主義」です。

そうすると、全国の物流が大坂に一極集中しますから、その経済から税を取れば秀吉は大儲けすることが出来ました。

これは、実は信長がやっていた楽市楽座を大坂でやったんです。


ところが、これで困ったのが家康なんです。

50年前に見つかった佐渡金山がとんでもなく大きなものだと家康の時代に分かり、家康はその金を掘ろうとしました。


家康がいた関東は湿地帯で、雨が降る度に坂東太郎(=利根川)が暴れて、人が住むことが出来ませんでした。

これを何とかして、河川の堤防工事をしたり、江戸城や江戸の街も作ろうとしましたが、これにはとんでもないお金がかかるんです。

どうしようかと思っているところに、大量の金が発見されました。


ところが、いくら金を発見しても大坂一極経済ですから、大坂方に全部取られてしまったらどうしようもありません。

そこで、関ヶ原を起こして大坂を滅ぼすしかなかったということが起こったんです。

この辺りの絵もおそらく光秀か、光秀の息子という説がある天海僧正(てんかいそうじょう)辺りが、家康に知恵を授けました。


実は4人で一つのセットになり、戦国の世を終わらせて徳川260年の太平の世を築きました。

そう考えると、まさにこの4人が「一霊四魂」そのものであったことは、歴史家の立場から見ても確かに言えることではないかなと思います。

羽賀ヒカル
面白いですね。

会社や組織でも、誰かが優れているといった上下意識ではなく、それぞれが役割を果たしているんだという考え方は重要ですよね。

彼らのうち、誰が欠けても戦国の世は終わらなかったし、江戸の日本も完成することはなかったということですね。


先ほど、「幸魂(さちみたま)」の役割を、表向きには千利休が果たしたのではないかという話もしたんですけど、家康もおそらく入れ替わってますよね。

影武者、世良田二郎三郎元信(せらだじろうさぶろうもとのぶ)のような話がありますよね。



小名木善行
-基本的に当時の大名、特に大大名クラスになれば、影武者は何人も持っていました。

家康の場合はかなり太っていたんで、太っていれば家康に見えるといって、影武者が使いやすかった話がありますよね。

だから、そういった徳川家康という役割があったんだということです

羽賀ヒカル
私もそのように思っています。



小名木善行
-日本人はもともと農耕民族であり、農耕の前には海洋民族なんですよね。

だから、船頭さんの言うことは聞くけれども、その上の言うことは聞かねえよという精神性が日本人にはあります。

とにかく自分たちの船や田んぼを守るためには一生懸命になります。

そんな中で、偉い人は俺たちが一生懸命に担いでやってるから、偉い人は偉い人をやっていることが出来るんだと思っています。

船頭さんがいくら偉くても、船員が良くないと船は沈むんですよ。

また、船員がしっかりしていても、船頭さんが良くなかったら、やはり船は沈みます。


だから、両方がお互いの役割をきちんと認識して、お互いの役割を120%果たすことによって、ひとつの船はきちんと進むことが出来ます。

これが実は農耕民族になる前の、日本人が海洋民族であった頃からの根底にあるマインドだと思うんですよね。

そういうマインドの下に、やはりこの4人も位置付けられてくるのかなと思います。

羽賀ヒカル
ありがとうございます。

今回は「神様になった四人の戦国武将」ということで、非常に良い内容だったと思います。

また、よろしくお願いします。



小名木善行
-ありがとうございました。

「一霊四魂」で捉えることは良いですね。よろしくお願いします。


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