【ホツマツタエ】日本最古の歴史書?内容や作者などの謎に迫る
こんにちは!北極神社の新米巫女、橋本ユリです。
橋本ユリ
日本には謎の多い古文書が多々残されています。縄文時代に成立し日本最古の古文書と言われている「ホツマツタエ」もその一つです。
ホツマツタエは学会や学者から偽書と見なされているため、現代においてはほとんど研究がされていません。しかし、江戸時代から研究はされており、内容の翻訳は既にされています。
さて、未だに謎の多い「ホツマツタエ」には、一体何が記されているのでしょうか?
今回の記事では、そんな「ホツマツタエ」の謎に迫っていきます。
それでは参りましょう!
ホツマツタエとは
ホツマツタエは神代文字(じんだいもじ)を使って書かれた叙事詩です。旧字で「ホツマツタヱ」とも書かれます。
神代文字は、古代において日本に漢字が伝来する以前に使用されていた文字だと言われています。神代文字には様々な種類があります。
- ヲシテ
- 天命地鎮(あないち)
- カタカムナ文字
- サンカ文字
- 豊国文字(とよくにもじ)
この中でも、ホツマツタエは「ヲシテ文字」を使って書かれました。ホツマツタエは「ヲシテ文献」と呼ばれる古文書の一つでもあります。
ホツマツタエは漢字で「秀真伝」「秀真政伝紀」などとも書かれます。日本書紀においては「秀真国」という言葉が出てきますが、これは「優れている国・立派な国」という意味です。「秀真国」には日本を称賛するような意味合いがあります。
そのため、「秀真伝」と漢字で表記されるのは、「優れた日本の言い伝え」という意味があるのではないかと言われています。
なお、ホツマツタエは学会から偽書と認識されています。しかし、その一方では「ホツマツタエは古事記や日本書紀を編纂する際に重要な参考資料となったはずである」と主張する声もあります。
一般的には偽書と認識されているホツマツタエですが、現代では愛好家たちの手によって独自に研究が進められているそうです。
また、ホツマツタエ肯定派の考えでは、ホツマツタエは『古事記』や『日本書紀』の原本であるとされています。『古事記』『日本書紀』の編纂の際に主要資料として扱われた文献のことを「古史古伝(こしこでん)」といいます。
このように、ホツマツタエには未だに解明されていない謎が多くあります。
いつ作られた
ホツマツタエが『古事記』や『日本書紀』よりも前に成立したと考えるのであれば、紀元前7世紀ごろに成立したのではないかと言われています。時代的には縄文時代ごろのことです。
ただし、実際の正確な成立年は明らかになっていません。成立年については歴史的根拠が未だ発見されていないため、あくまでも研究家の予想になります。
ホツマツタエの全文が発見されたのは昭和41年のことです。古史古伝研究家の松本善之助氏によって、古書店で偶然発見されました。発見されたホツマツタエの全文は、江戸時代ごろに製本されたものであるとされています。
ホツマツタエが本当の古文書であるならば紀元前7世紀ごろ、偽書であるならば江戸時代ごろに作られたと考えられます。
作者
ホツマツタエは、1章から28章までの前半部分を「クシミカタマ」が編纂し、29章から40章までの後半部分を「オホタタネコ(大田田根子)」が編纂したと記述されています。
クシミカタマは一般的には「大物主神(おおものぬしのかみ)」と呼ばれる古代日本の神様です。別名で「倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)」とも呼ばれます。
『日本書紀』の記述によると、大物主神というのは「大国主神(おおくにぬしのかみ)」の別名だとされています。大国主神は国を守護する神様です。
そして、大田田根子は大物主神の子孫です。「意富多多泥古命(おおたたねこのみこと)」とも表記されます。大田田根子は、崇神天皇の時代に大物主神を祀った人物だと伝えられています。
大物主神は神話に登場する神様ですので、実際にホツマツタエの文献編纂に関わっていたとは考えづらいです。また、大田田根子については実在した可能性はありますが、それも定かではありません。
何故かというと、古代天皇の実在性については諸説あるためです。
- 初代神武天皇から実在した説
- 第10代崇神天皇から実在した説
- 第15代応神天皇から実在した説
- 第26代継体天皇から実在した説
大田田根子は、崇神天皇の時代に生きた人物とされています。そのため、「神武天皇から」または「崇神天皇から」どちらかの実在説が真実であれば、大田田根子も実在した可能性が高くなります。
しかし、「応神天皇から」または「継体天皇から」どちらかの実在説が真実であれば、大田田根子の実在性は非常に低くなり、記述による架空の人物だということになります。
つまるところ、ホツマツタエの本当の作者は謎に包まれている部分が多いのです。記述では「クシミカタマ(大物主)」と「大田田根子」が編纂をしたとされてますが、実際には別の人物が編纂をした可能性もあるのです。
また、ホツマツタエが偽書であり江戸時代に成立したと考えるのであれば、大田田根子とは関係のない全く別の人物が編纂をしたということにもなります。
ヲシテ文字とは
ヲシテ文字は、日本に漢字が伝来するよりも前に使われていた文字だとされています。昔は「ホツマ文字」「秀真文字」「伊予文字」とも呼ばれていました。
ヲシテ文字を使って書かれたとされる書物に「ヲシテ文献」があります。ヲシテ文献として定められている書物は以下の通りです。
- ホツマツタエ
- ミカサフミ
- カクのミハタ
ホツマツタエとミカサフミには歴史が記されていますが、カクのミハタには占術が記されています。
先述の通り、ホツマツタエを始めとするヲシテ文献は学会において偽書とされています。そもそも神代文字自体の存在が学会においては否定されており、神代文字は古代文字などではなくどこかの時代で創作された文字だと言われています。
神代文字については江戸時代の頃から近代にかけて様々な学者の手によって研究がされてきました。研究の結果、漢字が外来する以前は日本には特有の文字は使われていなかったと結論づけられています。
しかし、ヲシテ文字が古代文字であるということを支持する層も一定数存在し、ホツマツタエと同様に現代でも愛好家によって研究が続けられています。いつかヲシテ文字の真偽が明らかになる日が来るかもしれません。
ホツマツタエの概要
ホツマツタエは五七調の長歌体で記されており、全40章(全40アヤ)で構成されています。
内容的には『古事記』や『日本書紀』と大筋は同じです。天地開闢から物語は始まり、初代天皇である神武天皇が国をおさめ、第12代天皇・景行天皇の時代までの出来事が記述されています。
それでは、ホツマツタエの内容について紹介していきます。
アワの歌
ホツマツタエには「アワの歌」と呼ばれる基本の48音で構成された歌が載せられています。アワの歌の歌詞は下記の通りです。
あかはなま いきひにみうく
ふぬむえけ へねめおこほの
もとろそよ をてれせゑつる
すゆんちり しゐたらさわや
アワの歌は五七調で、全48音で構成されています。アワの歌と同様にかな文字を重複させずに作られた歌として「いろは歌」があります。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
いろは歌は七五調で作られています。成立したのは10世紀~11世紀頃と見られています。アワの歌が成立したのが紀元前と仮定するのであれば、アワの歌に比べてかなり新しいものになります。
いろは歌は、現代では下記のような漢字が当てはめられています。
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
いろは歌は漢字を当てはめてみると、ぱっと見ただけで何となく意味が通じますね。では、アワの歌はどうでしょうか?
アワの歌は、いろは歌とは違い、一音一音に意味が宿るとされています。例えば「あ=天」「わ=地」という意味があります。このようにアワの歌には一音ずつに意味があり、それが言霊になっているとされています。
また、ホツマツタエによるとアワの歌はイザナギとイザナミによって作られたと記述されています。
内容
ホツマツタエの内容は多岐にわたります。下記がその一覧です。
- 天地開闢から始まる神話
- 初代天皇から景行天皇までの時代の物語
- 当時のしきたりについて
- アワの歌の成立経緯
- 縄文哲学
- 宇宙と人との関係
- 歴代天皇たちの実名
- ヲシテ文字の成立経緯
- 禊の方法
- 大和言葉の語源
などなど、神話や天皇の記述だけでなく、その時代特有の作法やしきたり、思想についても記述されているのだそうです。
記紀との違い
記紀とは『古事記』と『日本書紀』のことです。ホツマツタエの内容は記紀と似ているのですが、異なっている部分も多々あります。そのうちのいくつかを紹介していきます。
①天照大神が男神
天照大神(あまてらすおおかみ)は、一般的には高天の原を統べる女神だとされています。恐らくアマテラスと聞くと女神を思い浮かべる人が多いのではないかと思います。
しかし、ホツマツタエに登場するアマテラスは「アマテル神」と呼ばれ、男神だとされているのです。そして、瀬織津姫(せおりつひめ)を妻としています。瀬織津姫は古事記や日本書紀には登場しないのですが、水や祓いを司る神様とされており「祓戸大神(はらえどのおおかみ)」の一柱に数えられています。
アマテル神と瀬織津姫を夫婦として祀っている神社に「井関三神社」があります。
厳密には「天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこほあかりくしだまにぎはやひのみこと)」と「瀬織津比咩命(せおりつひめのみこと)」を主祭神として祀っています。
このように記紀に登場しない神様を主祭神として祀っている神社は非常に珍しいです。井関三神社は、兵庫県たつの市に鎮座していますので、近くまで行くことがあればぜひ立ち寄ってください。
②豊受大神は天照の祖父?
豊受大神はトヨウケビメとも呼ばれる女神です。天照大神の食事を司る神様とされています。
女性的なイメージの強い豊受大神ですが、ホツマツタエにおいては「トヨケ神はアマテル神の祖父」だと記述されているのです。記紀とは性別が違う上に系図まで異なっています。
豊受大神は伊勢神宮の外宮で祀られているのですが、屋根が男神の仕様になっています。このことからも、豊受大神が男神であった可能性が指摘されることがあるそうです。
③スサノオの名前
古事記や日本書紀には、須佐之男命(すさのおのみこと)という神様が登場します。ヤマタノオロチを倒したという逸話が有名なので、知っている人も多いのではないかと思います。
スサノオはホツマツタエにも登場するのですが、名前の表記がスサノオではなく「ソサノヲ」と記述されています。
これは、スサノオがソサ(紀州)で生まれたことに由来しています。
名前は少々違いますが、天照大神(アマテル神)に高天の原を追放され、葦原中国でヤマタノオロチを倒し、クシナダヒメ(イナダ姫)と結婚したという大筋の物語は同じです。
④記述年代の違い
『古事記』『日本書紀』『ホツマツタエ』は、それぞれ記述されている年代に違いがあります。
- 『ホツマツタエ』:天地開闢から景行天皇(71年)まで
- 『古事記』:天地開闢から推古天皇(628年)まで
- 『日本書紀』:天地開闢から持統天皇(697年)まで
天地開闢は全てに共通していますが、天皇記については、ホツマツタエは記紀と比べるとかなり古い時代のところまでしか記述がされていません。
ホツマツタエの作者は大田田根子という景行天皇の時代に生きた人物という説がありますので、作者の生きた年代と記述されている年代の辻褄は合っていることになります。
古事記や日本書紀との違いを一部紹介させてもらいました。この他にも、神様の系図が異なっていたり、神話の物語がところどころ変わっていたりといった違いが色々とあります。
まとめ
橋本ユリ
謎の多い古文書「ホツマツタエ」について紹介させてもらいました。ホツマツタエが真の古文書なのかどうか、学会では否定されていますが、古代文字が存在していたと考えると面白いですよね。
ホツマツタエの全文は翻訳されており、翻訳本の出版もされています。もしホツマツタエの翻訳本を読むのなら『はじめてのホツマツタヱ』という書籍がおすすめです。
『はじめてのホツマツタヱ』は「天の巻」「地の巻」「人の巻」の全3巻で構成されています。古文書を読むのが初めての人でも分かりやすいように書かれています。
ホツマツタエは『古事記』や『日本書紀』のように天地開闢から天皇までの物語が記述されています。記紀を読んだことがある人であれば、すんなり物語に入っていけるのではないかと思います。
記紀とは記述が異なる部分が色々あるので、違いを楽しみながらぜひ読んでみてください。
この記事をまとめた人
- 神社チャンネルのメインキャラクター。北極神社の新米巫女。2017年、神社参拝セミナーで羽賀ヒカルと出会い、日本人の良さと伝統を伝えていきたい!という思いから、この神社チャンネルサイトが始まりました。(という設定です。)
最近の投稿
- 参拝作法・マナー2023.12.28神社のはしごは良くない?それとも大丈夫?確認したい参拝作法
- 未分類2023.10.27【お知らせ】2023年を締めくくる大神神社の参拝に向けて
- 神社参拝2023.01.19初詣参拝で運気を上げる方法と2023年にオススメの神社6選をご紹介!
- 参拝レポート2022.11.29瀧原宮【参拝レポート】