神社チャンネル

神道専門家の羽賀ヒカル監修のもと、架空のキャラクターの
新米巫女の橋本ユリが、神社に関する知識をわかりやすく解説します。

白山信仰のルーツや祀られている神様は?謎多きその実態に迫る

2020年1月20日

こんにちは!北極神社の新米巫女、橋本ユリです。

日本は世界有数の山が多い国です。山は多くの恵みを与えてくれるだけでなく、時には災害を引き起こす存在でした。

古来より山に対する信仰を山岳信仰と呼び、神様が住まう山を霊山と呼びました。山に対する畏敬や崇拝する気持ちは、私達の遺伝子の中に根強く残っています。

橋本ユリ
今回は日本三霊山の1つである、白山を対象とした白山信仰について紹介していきます。


それでは参りましょう!

白山信仰とは

日本三霊山

富士山、白山、立山は日本三霊山と呼ばれ、数ある霊山の中でも特に山岳信仰が盛んです。三霊山はその山により象徴が異なっています。立山は男性、白山は女性、富士山は男女合わせた二元性を象徴していると言われます。

似た言葉に日本三名山があり、同じく富士山、白山、立山が選ばれています。三名山は登山が庶民にも普及した時に登山家や観光者が選んだもので、歴史は三霊山よりもずっと浅いのです。

とは言え古来は信仰の対象となり、近年でも多くの登山家が評価する富士山、白山、立山は日本を代表する名山と言えるでしょう。

 

白山とは

白山は単独の山ではなく、最高峰の御前峰(2702m)、大汝峰(2684m)、剣ヶ峰(2677m)の白山三峰と、周辺の山々を含めた総称です。

範囲は大きく、北陸三県(石川富山福井)から岐阜県まで広がっています。現在では登山で人気の場所であり、初級者から上級者まで幅広い登山客が訪れます。御前峰には白山比咩神社奥宮があり、そこから見える景色は格別です。

 

いつから始まった?

白山信仰がいつから始まったのか。具体的なルーツや始まりは不明です。白山から流れる水は手取川や九頭竜川、長良川等を満たし、地域一帯の農耕に大きな恵みを与えました。古来から白山信仰は盛んだったと思われます。

白山大神宮御鎮座伝では崇神天皇7年(紀元前91年)に船岡山(現在の白山市八幡町)に白山比咩神社の社殿が作られたとされています。

応神天皇28年(297年)に社殿は手取川畔(十八講河原)に遷座します。当時の手取川は暴れ川であり、十八講河原はしばしば氾濫に襲われた為、霊亀2年(716)に安久濤の森に遷座します。

翌年の養老元年(717年)、泰澄という修験道が白山の御前峰で修行をしていた時、翠ヶ池から九頭龍王が出現し、自らをイザナミの化身である白山明神・妙理大菩薩だと名乗りました。翌年泰澄は御前峰に白山比咩神社奥宮を建立しました。これが白山信仰の基になったと言われます。この時に素朴な白山信仰は神仏習合の中に組み込まれ、新たな宗派となりました。これ以降、多くの修験道が白山を参拝するようになります。

ちなみに修験道とはアニミズム、山岳信仰、仏教等が習合した日本独自の宗教であり、山に篭り厳しい修行をして悟りを得る事を目的としています。

 

白山信仰の神様

白山比咩神(シラヤマヒメ)

全国の白山神社に祀られているのは白山比咩神と言う神様です。

白山比咩神は前述した船岡山の社殿に祀られたのが起源であり、まだ仏教が伝来する前の時代です。水神や農業神としての意味合いが強かったのです。

 

白山権現

明治維新で廃仏毀釈が行われるまでは、神道と仏教が再構成される事(神仏習合)が多くありました。

白山権現は泰澄が御前峰に白山比咩神社奥宮を建立したものが始まりです。白山信仰と修験道が神仏習合して生まれた神であり、お寺である白山権現社で祀られていました。

当初の白山権現はイザナミや白山比咩神と同一視されていましたが、1480年の加賀の一向一揆後は同一対象がイザナミから菊理媛神へと変わっていきます。

廃仏毀釈後、修験道に基づく白山権現は廃されます。全国にあった白山権現社は取り壊され各白山神社に改組されます。今でも小松市にある那谷寺等、廃仏毀釈を免れて白山権現を祀る寺も少数ですが存在しています。特に那谷寺は開創から1300年が経ち、白山信仰自然智の森として親しまれています。

 

菊理媛神(ククリヒメ)

菊理媛神は日本書紀に登場する神様で、白山比咩神と同一視されています。

日本書紀では一般的に知られる神話とは別に、一書と言う多くの異伝が記載されています。菊理媛神は本文には登場せず、一書にのみ登場するので、馴染みの薄い神様かもしれません。

日本書紀の本文における黄泉の国でのイザナギとイザナミの場面はご存知でしょうか?イザナギが黄泉の国にいるイザナミに会いに行きますが、変わり果てたイザナミの姿を見て、イザナギは逃げてしまいます。黄泉比良坂(この世とあの世の境)までたどり着いたイザナギは、千引の岩を坂に置いて道を塞ぎます。イザナギとイザナミは口論の末、喧嘩別れをしてしまい最後まで仲直りは出来ませんでした。

ところがこの部分の一書は内容が大きく変わります。イザナミは黄泉比良坂まで追いついて、イザナギと口論になります。その時に泉守道者と言う黄泉の国の番人がやってきます。泉守道者はイザナギに「イザナミは黄泉の国に留まるので、現世には戻れない」と言うイザナミの意思を伝えます。この時に菊理媛神がイザナギに「ある事」を伝えるとイザナギはそれを褒めて現世に帰っていくのです。異伝では菊理媛神のおかげで2人は仲直りが出来たのです。

このエピソードから菊理媛神は夫婦の仲を取り持つ縁結びの神様と言われています。菊理媛神が何を言ったのかは不明ですし、謎多き神様でもあります。イザナミの別名と言う説や、生と死を司るシャーマンとも言われます。

それが何故日本書紀に出てくる菊理媛神と同一視されるようになったのかは不明ですが、最初にそれを記載したのは後三条天皇にも仕えた大江匡房と言われています。江戸時代には書物でも同一視される資料が発見されており、世の中に浸透していきました。

信仰の順番は、古来から続く白山比咩神に白山権現が結びついた後、近世に菊理姫神が同一視される流れとなります。

 

白山信仰の謎

橋本ユリ
白山信仰には未だ解明していない謎が沢山あります。幾つかご紹介しましょう。


 

白山信仰のルーツの謎

白山一帯に古来から続く山岳信仰は後に仏教と習合しますが、その過程には渡来人が関わっていたと言う説があります。シラと言う語感はユーラシア大陸全域で、光、大地、風等、畏敬する自然の事を指しています。白山(シラヤマ)信仰にもシラと言う語感が含まれています。

日本海側は古くはアジア諸国の玄関口であり、多種多様な民族が移り住んで来た為、白山信仰がどの民族により伝わったかは謎のままです。

古来に朝鮮半島から韓神信仰が伝わり、日本海側で牛を殺して漢神を祀る習慣が広まりした。桓武天皇が度々禁止令を出しますが、越前国はその後も習慣は続いており、朝鮮半島の文化が根強く残りました。福井の白山平泉寺には「牛岩・馬岩」と言う結界がある他、白峰村(現在の白山市)は江戸時代までは牛首村と言われており、白山信仰と牛には密接な関わりが考えられます。

水谷慶一は、中国の隋唐時代にアジア東北部に住んでいた靺鞨のなかの白山部という民族が、白山信仰のルーツと言う説を提唱しています。彼らは航海技術に優れた民族であり、朝鮮半島を南下して日本海に上陸します。

彼らの住む地域の近くには白頭山と言う白山に良く似た名前の山があります。この山は巫俗(シャーマン)の聖地であり、白山信仰に登場する菊理姫神も生と死を司るシャーマン的な立ち位置であり、よく似ています。

このように山岳信仰が後の白山信仰に繋がる過程は、まだまだ分からない事が多いのです。

 

泰澄の謎

また白山信仰の基になった泰澄自体も謎の多い人物です。泰澄の父親は渡来人と言われており、建築技術、養蚕等を日本に伝えた秦氏の一族です。泰澄の功績は「泰澄和尚伝記」に詳しく、天皇の病を治す等の奇跡を伝えていますが、奈良時代の歴史書にはほぼ登場しない人物です。各神社を建立した人物の足跡は見つかるのですが、同一人物かどうかは研究家の中でも議論が絶えません。

 

白山神社の地域性

白山比咩神社を総本山とする白山神社は全国に2700以上あります。白山の恵みを受けた北陸三県や岐阜県に多いのは当然ですが、東北地方等、白山の恵みを受けない地方にも点在しており、白山信仰の謎の1つです。

一説には泰澄が教えを全国に伝えた為との事ですが、泰澄と縁のない地域にも祀られています。他には江戸時代の矢野弾左衛門が信仰した事が関係しているとも言われています。

東北地方の白山神社は東北特有のオシラサマと混同されたと言われます。オシラサマは蚕の神であり、同じく白い山である白山信仰と結びやすかったと思われます。秋田県には白山神社の隣に大きな枝垂れ桜があり、白山信仰とおしら様とを重ね合わせた信仰が存在しています。

他にも青森には白山同様に霊山と言われている恐山があります。そこはイタコ等のシャーマンが数多く存在しており、同じくシャーマン的な菊理姫神とも親和性は高かったのでしょう。北陸と東北は場所は違えど、似たような信仰があった事は興味深いですね。

 

白山信仰で有名な神社仏閣

白山信仰の基とされる泰澄は、最初に平泉寺白山神社、白山比咩神社、長滝白山神社の順番で神社を建立し、それぞれの神社から禅定(頂の白山比咩神社奥宮)までのルートを開拓したと言われます。各神社は禅定の起点であり、馬場と呼びます。

当時の登山は今のような装備はなく、修験道を含めた厳しい修行の一環でした。平泉寺白山神社は越前番場、白山比咩神社は白山馬場、長滝白山神社は美濃馬場と言う名を持ち、白山三馬場と呼ばれています。現在も三馬場巡礼をする登山客もいるようです。

三馬場は組織的な繋がりはなく、独立した存在であり、過去には何度も対立しています。それぞれの土地柄もあり、歴史的にも異なる道を歩みます。

橋本ユリ
神社の説明と、その後の歴史について説明していきます。


 

白山比咩神社

住所:石川県白山市三宮町ニ105-1
祭神:白山比咩神(菊理媛神)、伊奘諾、伊邪那美

建立は白山神社の中で最も古い、紀元前91年です。明治時代に神仏分離が行われた際に、白山神社の総本山とされました。それは延喜式神名帳を確認した際に、こちらの神社が最も古いと判断されたからです。

歴史

泰澄が718年に神社を建立してから、比咩神社は「加賀白山」と言われ、白山信仰の中心として以後500年近く栄えます。1147年には越前馬場の平泉寺が延暦寺の末寺となると、白山比咩神社内の寺も延暦寺山門別院となり、寺社勢力としての立場が強まります。室町時代前期まで多くの高僧が訪れ、崇敬の対象となりました。

しかし1480年には本殿が炎上し、場所を現在の三宮町に移動。この頃から勢いに陰りが見られ出します。代わりに台頭したのが浄土真宗でした。宗派の違いや、年貢の争い等から1531年に白山衆徒は浄土真宗の一向一揆と戦いますが敗北し、衆徒はほぼ全滅します。この地域は加賀一向一揆に代表されるよう、今でも浄土真宗が根強く残ります。

荒廃した比咩神社ですが、安土桃山時代に前田利家が復興させます。その後江戸時代には歴代加賀藩主が比咩神社や白山寺の運営を担当します。明治時代には白山神社の総本山となり、白山寺は神仏分離令の結果、白山寺は廃されます。1951年には白山山頂の奥宮も比咩神社の土地となりました。

見所

現在の白山比咩神社は菊理媛神にちなみ、良縁成就のご加護があると言う事で連日賑わっています。白山信仰の中心であり、石川有数のパワースポットなので、五毅豊穣等の多くのご利益も当然ありますよ。

白山比咩神社に参拝に来たら、本殿だけでなく、白山奥宮遥拝所にも参拝をしましょう。こちらは白山の山頂にある奥宮と繋がる場所とされています。ここで参拝する事で、山頂の奥宮で参拝したのと同じご利益があると言われています。

 

平泉寺白山神社

住所:福井市勝山市平泉寺町平泉寺56-63
祭神:本殿に伊邪那美、別山社に天忍穗耳尊、越南知社に大国主

泰澄が最初に建立した神社であり、歴史的には白山神社の中では最も規模が大きく、白山信仰の巨大拠点として栄えます。最盛期には48社、36堂、6千坊、僧兵8千人となっており、歴史的にも大きな影響を及ぼしています。神社の大部分は一向一揆で消失していますが、現在も発掘調査が行われおり、貴重な資料や施設が次々と見つかっているのです。

歴史

717年に泰澄により建立されます。早くから白山信仰の拠点として名を馳せ、多くの山伏や僧兵が集まりました。後に延暦寺の末寺となり、平泉寺は平家物語や、太平記等、歴史上にも度々登場します。1440年に火災で山が炎上しますが、復興資金として北陸道から租税を取る事を認められ、逆に規模は拡大していき、室町時代後半には8千人の僧兵のいる宗教都市となりました。

1543年には白山山頂の管理権や入山料の徴収を巡り、白山比咩神社と対立します。戦国時代には越前国の朝倉氏と同等の勢力を持っていましたが、1574年に越前一向一揆勢に攻められ、多くの僧兵は討ち死にし平泉寺も焼失します。後に再興されますが、規模はずっと小さいものでした。

江戸時代には長年の対立の元だった白山山頂の管理権が平泉寺のものという事で決定します。当時は白山比咩神社よりも平泉寺の方が総本山と思われていたのです。明治になり神仏分離令により寺院は廃され、白山比咩神社が白山神社の総本山となったのです。

見所

大部分が消失したとはいえ、その規模は未だに大きく、平泉寺の本社はとても雄大です。本社の扉は33年に1度しか開かず、次に開くのは2033年です。

境内まで続く道は日本の道100選にも選ばれています。また梅雨〜夏には苔が一面に生え、京都の苔寺・西芳寺と並ぶ程と言われます。日本有数のパワースポットと言えるでしょう。

 

長滝白山神社

住所:岐阜県郡上市白鳥町長滝138
祭神:菊理媛神、伊奘諾、伊邪那美

三馬場に数えられるようになったのは他2つより遅い時期でしたが、江戸時代末期には日本に数多くある白山神社の半数以上が長滝神社系列であり、その影響力は大きかったのです。

美濃馬場から白山の頂までは白山中居神社等、幾つかの白山神社を通る事になります。道中には石徹白という、祈祷や道案内を行う御師の家が並ぶ集落があります。他にも石徹白大杉等と言う樹齢1800年の大きな杉の木等、多くの信仰対象があり、登山者を見守っていました。

歴史

泰澄により718年に建立されます。同じ月に元正天皇の病気の祈願をして効果があったとされています。後に神仏習合に伴い、白山本地中宮長滝寺と名前を変えました。

828年に天台宗となった後に白山三馬場の1つとなります。1271年には火災に巻き込まれますが、1290年には再建されます。

江戸時代には全国の白山神社の管理は大半が長滝神社が担っていた為、白山嶺上の管理についても長滝神社が行うべきだと、三馬場間で論争が起きています。同じ信仰を持ちつつも三馬場は協力し合っていたわけではないのですね。

1868年長滝白山神社と長瀧寺に分離しますが、長瀧寺は廃される事なく、同じ敷地内に存在しています。1899年に火事で社殿が消失しており、現在私達が見る事が出来るのは大正時代に再建されたものになります。

見所

ご利益は五穀豊穣・家内安全・商売繁盛等があります。場所も国道沿いにあり、道の駅も近いのでアクセスしやすい場所にあります。見所は隣接する神社と寺です。これらが同じ敷地にあるのは珍しいことであり、大きな特徴でもあります。

宝物館「瀧宝殿」があり、そこで御朱印をもらう事が出来ます。1月6日の六日祭には長滝の延年という舞が開かれます。桜や菊等の沢山の花を奪い合う祭であり、国の重要無形文化財に指定されています。

 

まとめ

元々の白山信仰は北陸に広がる白山の恩恵や畏敬を元に作られた素朴な山岳信仰でした。

後に神仏習合を経て寺社勢力と結びつき、時には日本の歴史に影響する程の勢力となりました。現在は白山比咩神社が総本山となっています。
また白山信仰では白山比咩神を祀ってあり、菊理姫神と同一視されています。

白山信仰は半島からのルーツも示唆されており、全国に沢山ある白山神社の謎も解明されていません。

橋本ユリ
白山信仰の歩みは日本史の歴史を見る上で非常に興味深い事柄と言えますね。


これらの記事も合わせて読むと、開運の秘訣がわかります。

「歴史・建物・組織」カテゴリの記事

神道専門家の羽賀ヒカル監修のもと、架空のキャラクターの
新米巫女の橋本ユリが、神社に関する知識をわかりやすく解説します。