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神道専門家の羽賀ヒカル監修のもと、架空のキャラクターの
新米巫女の橋本ユリが、神社に関する知識をわかりやすく解説します。

神仏習合とは?現存する神社はどこにある?

2019年9月21日

こんにちは!北極神社の新米巫女、橋本ユリです。

橋本ユリ
今回の記事では、「神仏習合」について詳しく書いています。日本の神道と仏教の歴史を紐解いていきます。


それでは参りましょう!

神仏習合とは

日本には古(いにしえ)の時代から、人間を取り巻く自然界の全てのものには神が宿ると信じ、清浄な山や岩、木や滝などの自然物を神宿るものとして祀りました。そして、まつりの場所には建物が建てられ、神社としました。こうした神社を中心とする日本の神々への信仰が、後に神道(しんとう)と呼ばれるものになったのです。6世紀後半になると西の国インドから朝鮮半島を経由して仏教が伝来します。仏教はインドの釈迦を開祖として説かれた教えです。修行し悟りをひらいた者は仏になるという教えです。

もともと多数の神様がおられる神道は、仏教を受け入れ、神社の境内などに神宮寺が建てられるようになりました。長い年月を経て神道と仏教は互いに影響しあい、融合し、人々の間に広まっていきます。

これを神仏習合といいます。

 

神仏習合の意味

自然を愛し、その恵みに感謝する風習から生まれ、土着の神への信仰が「神道(しんとう)」です。

日本には古代から、山や巨岩、大木を神の座と崇める風習がありました。その神の座のおわす周囲の森を聖なる場所とし、やがてそれが神社となりました。すべての自然物や自然現象には神が宿るという考え方から、神に収穫を祈り、風水害のないことを祈る祭祀儀礼を行い神を祀る場となりました。また後に国家や郷土のために尽くした偉人や、子孫を見守る祖先の御霊をも神として祀る神社も現れました。


6世紀半ばの飛鳥時代になると、インド発祥の仏教が中国から朝鮮半島を経由して伝来します。仏教は紀元前5世紀頃に実在したゴータマ・シッダールタが悟りを開き仏陀とよばれました。悟りを得た人のことを仏陀または仏と言いました。「悟りを得ること・仏になること」を目的とするのが仏教の教えです。人々にその教えを説いたものが仏教です。インドを起源に持つ宗教ですが、日本に来たときには本来の姿とは変わり大乗仏教と呼ばれます。


神道が自然崇拝により部族や村などを守ることを目的として発祥した信仰であるのに対し、仏教はおもに人々の安心立命や魂の救済を求める目的で信仰されてきたものです。神道にはみられない崇拝対象である偶像(仏像)、明確な経典、そして僧侶による布教活動、また建築・彫刻・絵画・工芸などの技術や医療の知識を携えて、日本にやってきました。

ちなみに、神道という言葉は、この仏教が伝来した時に、日本の神への信仰と区別するために後にできた言葉です。教祖や偶像が無く、経典も存在しないため、「神教」と呼ばず「神道」といいます。

仏教の扱いについて、神社は、元来多神教のため、仏教の神も仲間入りさせるという選択をしました。適応力の高さとおおらかさが日本の神々、つまり神社の基本的な考え方の特徴でした。また、仏教も他の宗教の神様や信仰と融合する柔軟性を持っていたため、日本の人々に時間をかけながら少しずつ受け入れられていきました。そして神社に付属する形で境内に寺が建てられ、神宮寺ができました。神宮寺は仏像を安置し、神社には神の象徴である鏡、剣、玉などを祀ります。

こうして江戸時代まで千年以上の年月をかけて、神と仏は徐々に融合し、調和されていきました。これが「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)の意味です。

 

神仏習合の歴史

6世紀前半に伝来したとされる仏教は、時の政権を支配する聖徳太子により積極的に推奨され、国家宗教として認知されていきます。

7世紀後半の白鳳時代ころより神前で読経・写経などが行われ、神社の境内に、神社に付属する形で神宮寺が建てられます。奈良時代初期には、権力を持った神社に寺院が造営され、奈良時代後半になると地方の多くの神社もそれに倣い、広まっていきました。仏が日本の神とは違う性質を持つものであると理解されるにつれて、日本の神々も人間と同じように迷い、苦しみから逃れたいと願い、仏の救済を求め解脱を欲していると認識されるようになってきました。

8世紀には日本の神は仏教に帰依し、修行を願っているのだとして、各地の神社の境内や隣や裏山などに次々と仏教寺院が建立されていきます。神道の神を仏の教えによって救う神宮寺が建てられたのが初めです。

日本の神様が、仏教寺院で仏陀の悟りを求めて修業をするということになります。結果的には仏教が主、神道が従という形になっていきます。この神宮寺を建立し、仏陀のもとで修行することを「神身離脱(しんじんりだつ)」と言います。

その一方で「善なる神が、仏を守護するのである。神社は寺院を鎮護する神なのである。」という考え方が(善神)でてきます。梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)、四天王、十二神将、十六善神、二十八部衆などの神様(善神)によって、仏法は守護されているというのです。「護法善神(ごほうぜんしん)」といいます。

仏法を守護するのは善なる神なのである、という意味です。例を挙げれば興福寺の守護神は春日大社、比叡山の守護神は日吉大社、東寺の守護神は伏見稲荷大社、があります。

こうして神と仏の関係は、神は仏に救いを求め、かわりに仏は神の守護を得るという、持ちつ持たれつの関係が続いていきました。

その後、奈良時代終わりごろから神と仏は徐々に融合・調和されていき、10世紀の初め平安時代後半になると、神と仏は同一・一体なのであるという説が出始めます。日本の神は実は仏の仮の姿なのであるという考え方になっていきます。仏陀や菩薩が、仮の神の姿になって垂迹するという「本地垂迹説」が生れ,神は権現と呼ばれるようになりました。「本地」とは仏菩薩が本当の姿であり、「垂迹」とは神に仮身するという意味です。

神々は仏菩薩の権化(仮の姿)であるとされ,仏菩薩が衆生を救うために、日本の神に化身してこの世に現われた、という説です。

11世紀初頭から「権化」は神号となりました。天照大神(アマテラスオオミカミ)は大日如来、須佐之男尊(スサノオノミコト)は熊野権現であり阿弥陀如来、伊邪那岐尊(イザナギミコト)は釈迦如来、伊弉冉尊(イザナミノミコト)は千手観音。また、大国主命(オオクニヌスノミコト)は大黒天で、市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト)は弁財天、などなど神仏は一体であるとされました。

建築物の様式も和洋建築から、大陸から伝えられた寺院建築様式の影響を受けた鳥居や神殿がつくられました。賽銭箱や灯篭・手水舎など、寺院も神社も同じ形態となっていきました。

このようにして千年以上にわたる歴史の中で、神と仏は徐々に融合され一体化されて、庶民の間では神も仏も特別に区別する必要もなくなっていきました。

人々は神棚の神様に柏手を打って商売繁盛を願い、仏壇に手を合わせて家内安全を願う、という日々を送ります。また正月には神社に、お盆にはお寺に行きます。お宮参りや七五三では神社を訪ね、葬儀はお寺に出向く、といった区別をすることに何の不思議もありません。

このように、神仏習合の形態は、江戸時代の終わりまで続きました。

 

神仏分離

日本の人々の間に千年以上も続いた神仏習合の慣習を排除し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させることを神仏分離といいます。

神仏習合が定着していた江戸時代にも、神仏分離の思想は既にありました。江戸時代の国学者本居宣長とその弟子平田篤胤は、当時日本本来の文化や日本の宗教について研究する動きあるのを受け、日本に古来の神道の姿を求め研究を重ねていました。ただ当時の神仏分離の思想は知識人階級の話であり、一般の人では、「神様仏様」と言って自分たちの生活を救済してくれるありがたい存在という考えでしかなく、一般の人々の生活には影響するほどのものではありませんでした。しかし儒教が盛んだった岡山藩や水戸藩、淀藩、会津藩等を中心に神仏分離政策は行なわれていたのです。出雲大社でも17世紀に神仏分離が行われました。

明治時代に入ると、明治政府は明治維新の政治的理想であった「王政復古」「祭政一致」の指針を掲げます。そしてその理想実現のため神道国教化への方針を採用し、具体的な政策へと進んで行きます。

これを、神仏分離政策といい、「神仏判然の令」によって具体化されていきます。
  1. 神社での仏像神体の禁止。神社内の梵鐘、鰐口、仏具等の除去。仏教的建造物の撤廃。
  2. 寺院による神社の祭祀の禁止。神社での仏事の禁止。
  3. 神社の管理・祭祀を行っていた下級僧侶の退職、もしくはその名称を神主・社人とする。
  4. 神社では権現、菩薩、牛頭天王などの仏教名称の廃止。
つまりは、神社から仏教的な色彩を一掃し、神と仏を明確に区別せよ、というものでしたが、政府の意図していたものとは違い、思わぬ結果を招くことになります。

 

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

明治政府から神仏分離令が出されるやいなや、神社の神官や市民などが仏教に関わる様々なものを破壊する廃仏毀釈運動が全国で広まります。

廃仏毀釈は地域によってその激しさの程度が違いました。藩によって考えが違ったためや、寺請制度によってお布施などで財政的に苦しんできた一般民衆の仏教への反感感情の差などがあります。地方の神官や国学者が扇動したともいわれています。

民衆は多くの仏像や仏具・経巻などを暴動のような激しさで破壊し、焼却しました。寺院や芸術品、美術品なども破壊され多くの貴重な文化遺跡が失われました。歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われたのです。

これ以後全国の神仏習合神社から仏教色がすべて排除されましたが、地方の神社では過激な神仏分離が多発したため、太政官は明治4年には、神仏分離の実施には慎重を期すよう命じました。しかし、政府の意向は末までは行き届かず、地方の各藩や政府直轄地では、地方の役人がこれを無視して強硬な抑圧・廃仏策を推し進めたため、寺院の統廃合など神仏分離を超えた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とよばれる事態が明治7年ごろまで続きました。

しかし新政府の行なった神仏分離政策は永くは続きませんでした。国学者が主張した昔の体制に戻ろうとする祭政一致は、現実的には困難なものでした。

神道の国教化は、教祖もおらず、経典もない神道では布教活動の経験に乏しい神道関係者のみでは難しく、仏教界の協力がなくては遂行できないことは明らかでした。

そこで、神祇省は教部省として再編成され、教育機関としての大教院を設置することになります。教育する側として僧侶なども任命されて、神道国教化への神仏共同布教体制ができあがっていきます。

しかし西洋諸国はキリスト教に対する禁教令に強く反発し、政府に信教の自由の保証を求めます。その結果、明治6年には禁教令が廃止され、明治8年には大教院を閉鎖、キリスト教の解禁、明治10年には教部省も廃止、内務省社寺局に縮小されて、遂に神道国教化の政策は放棄されました。代わって神道は宗教ではないという見解がなされたのです。

 

神仏習合が現存する神社

現在では神道の宗教施設を神社、仏教の宗教施設を寺院と呼んでいますが、その景観からも神社、寺院の区別がわかるようになっています。

しかし神仏分離令が発令される前の江戸時代までははっきり区別されていませんでした。神社の敷地内に寺院があり、また寺院の中にも神道の神様を祀る神社がありました。

明治政府になり、多くの神社や寺院が神仏分離令や廃仏毀釈運動によって破壊され、焼却されたりしましたが、幸いにも廃仏毀釈運動を逃れて、江戸時代以前の神仏習合時の姿を残す寺院が今でもあります。

鳥居のあるお寺、三重塔や五重塔のある神社などがその例です。

神様のおられる土地との境界になる鳥居は、通常は神社にあるものですが、神仏習合の時代には寺院の中にも神社があり、神様が祀られていました。

 

奈良県の宝山寺は、鳥居のある珍しい寺院として知られています。山門の前に大きな二の鳥居、その先にあるご本堂の前に一の鳥居の2つの立派な鳥居があります。

塔とは仏舎利を安置したお墓をイメージしたもので、寺院の敷地内に建てられたものでした。神仏習合により出雲大社の境内にあった三重塔は江戸時代に行われた神仏分離を逃れ、兵庫県の寺院に移されましたが、現在では兵庫県の名草神社の敷地におかれています。

神仏習合の色を濃く残す日光東照宮にも五重塔が境内にあります。他には奈良県の談山神社の木造十三重塔などがあげられます。
また、東京台東区の浅草寺と浅草神社は隣り合わせにありますが、元々は同じ敷地内にあり、神仏習合の名残りといわれています。

 

まとめ

日常生活の中で日本の人々は年間の行事を大切にします。

正月には新年を祝い、福を求めて神社に参ります。2月には厄払いの豆をまき、バレンタインデーを楽しみ、夏にはお盆で先祖の霊をなぐさめます。家には仏壇と神棚が一緒に祀られ、10月はハロウィン、12月にはクリスマスツリーさえもあります。すべてが宗教色のある行事です。外国の人から見ると非常に稀有に写ることでしょう。

日本の人々は宗教を持たない、信仰を持たないと言われてますが、そんなことはありません。特定の宗教を持たないだけで、形のない神様を信じ、宗派を問わずそれぞれの神に畏敬の念を抱いています。それは千年以上も続いた神仏習合の歴史があるからだと思います。

橋本ユリ
日本古来の自然を敬い恵みに感謝する神道(宗教ではありません)と人の道を説く仏教が絶妙に融合しあい、千年以上のあいだ日本人の生き方に影響し、国民性を形造ってきたのだと思います。日本人が礼儀正しく、秩序を守る民族といわれるのも、神仏習合の賜物であると思えてなりません。


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