八咫烏ってどんなカラス?ー悩める現代人のお導きの神様ー
こんにちは!北極神社の新米巫女、橋本ユリです。
橋本ユリ
八咫烏(やたがらす)という名前を聞いた事はありますか?
近年ではJFA財団法人日本サッカー協会の旗章や、日本代表のユニフォームのエンブレムにも描かれているので、思いうかぶ人も多いかと思います。
今回の記事では、八咫烏について迫ってみたいと思います。
それでは参りましょう!
目次一覧
八咫烏とは
「八咫烏」は日本神話の中で、神武天皇の東征の際、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)により神武天皇の元に遣わされ、大和の橿原までお導きをしたという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。
八咫烏の「咫(あた)」は中国や日本で使われた長さを表す単位です。
一咫は女性の親指と人差し指を広げた長さの事を指しますが、それとは別に「八」には「八百万」が「たくさん」を表すのと同じように、ここでは「大変大きい」という意味で使われています。
八咫烏には三本の足があります。いくつか説はありますが、熊野地方で中世に勢力を誇った豪族の「宇井」「榎本」「鈴木」を表しているという説や、熊野本宮大社の主祭神である家津美御子大神(けつみこのおおかみ)のご神徳である「智」「仁」「勇」である説、「天」「地」「人」を表したとも言われています。
「天」とは天神地祇という意味で神様を表し、「地」は大地のことで、私達が住む自然環境を表します。つまり、太陽の下に神様と自然と私達が血を分けた兄弟であるという意味です。
平安時代初期に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』によると、「八咫烏」は、鴨県主(かものあがたぬし)の祖先である京都下鴨神社の祭神である鴨建角身(かもたけつのみ)が化したと記されており、また、熊野三山では神の使いである「ミサキ神」として奉られています。
八咫烏神話
日本書紀によると、九州を出発した神倭礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと 後の神武天皇)一行は瀬戸内海に進み、難波(大阪)に上陸しますが、ここでの戦により、兄の五瀬命(いつせのみこと)は命を落とします。
(日神の子孫であるのに太陽に向かって戦ったのが悪かったのに違いない)と考えた一行は、海路を使って南下し、なんとか熊野に上陸を果たします。
しかし熊野神倭礼毘古命の一行は熊野に上陸後、熊野の荒ぶる神を前に全員が気を失ってしまいます。その時、その様子を天から眺めていた天照大神は、太刀を下しさらに道案内にと八咫烏を遣わしたのでした。
こうして一行は困難を極めながらも熊野の地を進み大和に向かいます。
道無き道の険しい熊野の道は、八咫烏のお導きがなければ進むことも難しかった事でしょう。八咫烏の導きにより一行は無事大和に到着し、橿原の宮で即位し初代神武天皇となりました。
八咫烏には、このような日本統一を成し遂げた神武天皇をお導きしたという「神武東征」の故事に習い、「導きの神」として篤い信仰があります。
橋本ユリ
道に迷った時に道案内をしてくれる、背中を押してくれる、道開きのご利益があるたのもしい神様です。
サッカーとの関係
1997年、サッカー日本代表チームは悲願のワールドカップへの出場を果たしました。その時、胸につけていた三本足のカラスのエンブレムにも注目が集まります。
1931年日本サッカー協会の理事会で決定されたこのエンブレムは、東京高等師範学校(現 筑波大学)の内野台嶺(うちのたいれい)教授らの発案で、当時の有名な彫刻家、日名子実三(ひなごじつぞう)がデザインした物です。その内田教授の先輩に日本に初めて近代サッカーを紹介し、以後サッカーの普及に尽力を尽くした、和歌山県那智勝浦町浜の宮出身の、中村覚之助がいました。
1903年(明治36年)、中村覚之助は日本最初のサッカー解説、指導書である「アッソシェーション・フットボール」を執筆し出版します。翌年2月には、部員を集めて、横浜で横浜外国人クラブと日本初の対外試合を行いました。この事が新聞で詳報されるやいなや、全国の中学校から蹴球指導の依頼が殺到します。部員たちは各地の学校へ指導に出向くと共に、卒業後は各地でサッカーを指導し、日本サッカーの礎を作り上げました。
中村覚之助は同校卒業後、中国の済南師範学校の先生になりましたが、1906年(明治39年)28歳の若さで夏季休暇中で帰国中の神戸で亡くなりました。早すぎる彼の死を惜しみ敬意を表して、当時部員だった内野台嶺がサッカーのシンボルマークに、熊野那智大社の八咫烏をデザインしたと言われています。
中村覚之助の生家がある那智勝浦町浜の宮は、神武東征の際に上陸したといわれる丹敷浦のある場所で、八咫烏がここから那智山に導いたと言われています。きっと、このエンブレムには、ボールをゴールに導くようにと、強い願いが込められているでしょう。
熊野信仰と八咫烏
橋本ユリ
全国の熊野神社は神使が八咫烏です。
これは総本宮の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)が八咫烏を熊野権現の使いとして崇められてきたためです。
古来、紀伊半島は京都がある京都から見て南に位置する為、古来から神様がお住みになる土地として崇められてきました。
奈良時代には、険しい山々での修行の場として山岳修行僧が多く集まる場所となりました。
平安時代後期からの法王の熊野への参詣を機として上皇達の熊野詣でが始まります。数百人のお供と共に京都の御所から舟で大阪まで下り、陸路を使って熊野を目指しました。現在の紀伊田辺からは険しい山道を上皇と言えども歩いて熊野三山を目指したと言われています。片道約、300kmの道のりを約一ヶ月かけて往復しました。
907年の宇多法皇から始まり、1281年の亀山上皇まで約370年の間に約100度の熊野御幸が行われました。中でも後白河上皇は33度も熊野御幸を行ったと言われています。
様々なしきたりで規制され、自由な行動をする事が許されなかった天皇と違い、権力や財力を保持しながら、思いのままに政治を動かす事ができた上皇だからこそ熊野御幸が可能でした。
鎌倉時代になると、武家から庶民まで多くの人が熊野に詣でるようになり、その様子は「蟻の熊野詣」と例えられました。しかし承久の乱後、朝廷に代わり武士が権力を持ちます。熊野三山の荘園経済は崩壊し、特に戦国時代には戦乱で社堂も荒れ、熊野詣は衰退しました。
そこで、熊野山伏、熊野比丘尼(くまのびくに)らの勧進聖達が全国各地で熊野信仰を広めていきました。野比丘尼達が全国で関心活動をする際、大きな黒い牛玉箱と勧進柄杓を抱え勧進に歩き、各地で「熊野曼陀羅」を絵解きし、カラス文字で書かれた御神符「熊野牛王神符」や梛木の葉を配りながら、熊野信仰を庶民に広めていきました。
当時、仏教の知識もない、弱い立場であった女性達にとって、浄不浄を問わず、男女を問わず、誰でも受け入れてくれた熊野権現の存在は、大きな心のよりどころになったことでしょう。
全国に熊野信仰が広まった事で、熊野三山の祭神を勧請した神社が全国各地に成立していきます。その数、現在では4700社と言われています。
八咫烏に関係する神事、お守り
橋本ユリ
最後に熊野本宮界隈で八咫烏に関係のある神事、お守りなどを紹介します。
「八咫烏神事」1月7日
1月7日夕方5時から行われる県の無形文化財にも指定されている神事です。「熊野牛王宝印」押し初めの神事であり、毎年全国から多くの参拝者が訪れます。1月1日から3日まで神門前に飾られた門松で「熊野牛王宝印」を調整し、火と水で祓い清め、祭神の魂が吹き込まれる祭典です。
通常、「熊野牛王神符」の真ん中に押印される宝印ですが、押し初めの儀であるこの神事では半紙に宝印のみの貴重な「白玉宝印」が参拝者に授与されます。
夕闇が迫る午後5時から拝殿にて神事は始まります。まず松明の火と水により熊野牛王神符が清められます。御柱押印の儀では、暗闇の中、神職が正面左手の柱に掛け声と共に三度押印し、神に本年の印を奉告します。
神事の後、参詣者も拝殿に上り、神職から宝印を半紙に受けます。神職は「えーい!」という掛け声の元全力で宝印を参拝者の半紙に押し当て、参拝者も一生懸命手のひらで受け止めます。毎年、一年の健康などを願い多くの参拝者が訪れます。
「八咫の火祭り」8月最終土曜日
毎年八月に行われるお祭りです。
熊野本宮大社境内から大鳥居のある大斎原まで古式ゆかしい時代行列の「祀り」から始まり、大斎原では太鼓、踊り、花火とパワフルな「祭り」と変化していきます。
神武東征の故事に倣い、この祭りは「人々を幸福に導くという意味を込めて、「導きの祭り」としています。
熊野牛王神符(くまのぎゅうおうしんぷ)初穂料 小800円 大3000円
参詣者は熊野三山それぞれで参拝の帰途、「熊野牛王神符」と道中旅のお守りにと「梛木の葉」を受けとる慣しがありました。この「熊野牛王神符」は護符の一種で除魔と息災の霊力があるとされ、また、裏面に契約文を書き相手に渡す誓紙としても使われました。
「熊野牛王神符」は俗に「オカラスさん」と呼ばれ、一つ一つの文字がカラスの形でデザインされたカラス文字と宝珠で書かれた熊野三山特有の御神符です。カラス文字の数は各大社によって異なり、熊野本宮大社は88羽、熊野速玉大社は48羽、熊野那智大社は72羽のカラス文字で書かれています。
この牛王神符を使って誓いを交わすということは、熊野の神にかけて誓うということであり、もしその誓いを破ると、熊野大神の使いのカラスが一羽亡くなり、誓いを破った本人も血を吐いて地獄に落ちると信じられてきました。
また熊野信仰の人々を災いから守る御神符としても使われ、
- カマドの上(ガスの元栓)に祀れば火難をまぬがれ、
- 玄関に祀れば、盗難を防ぎ
- 旅の途中、ポケットにしまえば、乗り物酔いを防いでくれ、
- 病気の人の布団の下に敷けば、病気平癒となる。
と言われています。
大きいサイズのものは熊野本宮の古くからつたわる手すき和紙である「音無紙」でつくられています。
「和の守(おまもり)」初穂料2000円
熊野古道とスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラは「道」として世界遺産に登録された巡礼道です。日本とスペインのみならず、世界中の人々が「和合」するようにと、このお守りが調整されました。
デザインは「ジョジョの奇妙な冒険」で有名な漫画家荒木飛呂彦先生です。お守りの片面には八咫烏、もう片面にはサンティアゴ巡礼の道端に咲くラベンダーとシンボルの「ホタテ貝」がデザインされています。
清々しいグリーンのこのお守りは旅に出る時、何か新しいことに挑戦する時など、進むべき道を示してくれるお守りです。
「サッカー守り(大・小)」初穂料1000円
藍色より深いブルーである「褐色(勝ち色)」をイメージしたこのお守りは中央にJFA日本サッカー協会のエンブレムがデザインされており、多くのサッカーファンやサッカー好きな子供達を守ってくれるお守りです。
「からすみくじ(黒・金)」初穂料500円
コロンとした愛らしい黒と金色の八咫烏の形をしたお守りの中におみくじが入っています。目があった子を連れて帰ってくださいね。
八咫烏風鈴
毎年7月中旬から盆明けごろまで、色鮮やかな短冊に八咫烏が描かれた「八咫烏風鈴」が熊野本宮大社内などにつるされます。
風鈴は南部鉄製で、熊野地方に伝わる伝説「三体月」の模様も入っています。境内では最上部に八咫烏の像をあしらわれた回転台に88個、参道沿いに約200個、町内の商店街などに約80個がつるされ、涼しげな音色で参拝者を楽しませてくれます。(参拝者の方にお譲りできないとのこと。)
八咫ポスト(熊野本宮大社境内にある黒いポスト)
2009年10月29日に拝殿横の御神木多羅葉の木の下に黒い郵便ポストを設置しました。ポストの上には八咫烏の像が鎮座しています。
普通ポストは赤色が基本ですが、日本郵便の許可があれば、色を変えることができるとのことです。黒色は全ての色を合わせた尊い色であり、神の使いの八咫烏の色、熊野本宮の大地を象徴する神聖な色でもあります。御神木の多羅葉の木は、その昔、その葉の裏に尖ったもので文字を書いていたことから葉書の語源となりました。
八咫ポストから手紙を出す際には「出発の地より心をこめて 熊野本宮」という記念スタンプもご用意しています。ぜひ参拝の記念に、大切な人のためにお便りをしたためてみませんか?
※※お守りなどのお問い合わせ
■熊野本宮大社
和歌山県田辺市本宮町本宮100-1
TEL:0735-42-0009
■熊野速玉大社
和歌山県新宮市新宮1
TEL:0735-22-2533
■熊野那智大社
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
TEL:0735-55-0321
※※アクセス、宿泊先などのお問い合わせ
■熊野本宮観光協会
TEL:0735-42-0735(8:30-17:15)
■新宮市観光協会
TEL:0735-22-2840(9:00-17:00)
■那智勝浦町観光協会
TEL:0735-52-5311(8:30-18:00)
まとめ
長い人生、迷い、戸惑い、悩み、色々ある長い人生をいい方向に導いてくれる、そっとあなたの背中を押してくれる、それが八咫烏です。熊野はそんな頼もしい八咫烏のお導きを感じることができる場所の一つです。
熊野古道が2004年にユネスコ世界遺産に登録されてから、15年が経ち、現在では日本国内のみならず、海外から熊野に多くの方が訪れていて、まさに世界的な熊野詣が始まっています。
橋本ユリ
ぜひ八咫烏のお導きを感じに熊野に訪れて、蘇りを感じてみてはいかがでしょうか。
熊野の八咫烏が、きっとあなたを次のステージに導いてくれることでしょう。
この記事をまとめた人
- 神社チャンネルのメインキャラクター。北極神社の新米巫女。2017年、神社参拝セミナーで羽賀ヒカルと出会い、日本人の良さと伝統を伝えていきたい!という思いから、この神社チャンネルサイトが始まりました。(という設定です。)
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